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瑞暉亭ものがたり〜ヘルマン・トローツィグ〜

瑞暉亭ものがたり
〜ヘルマン・トローツィグ〜
Hermann Trotzig (1832〜1919)

1859年(安政6年)、スウェーデン青年を乗せた船が幕末の日本へ向かっていた。

青年の名はヘルマン・トローツィグ。

1832年、ストックホルム市長であったモーテン・トローツィグの曾孫としてストックホルムで生まれ、父が税関検査官を務めるカールスクルーナで育った。ここは海軍基地がある街として知られている。

父親はヘルマンが海軍士官になることを望んでいたが、ヘルマンは海軍学校に入学したものの挫折し、イェーフルの航海学校に移った。

1852年に航海学校を卒業。数年間、航海をする日々が続いたが、黄熱病が蔓延するリオデジャネイロ(ブラジル)で九死に一生を得て帰国。帰国後まもなくロンドン行きの船に乗り込んだ。

家族の理解を得られぬままの出発であった。ロンドンで1年間、経済学を学び、学位を取得した。

その後、イギリス汽船イングランド号の職に就き、3年間遠洋航海を経験した。

1858年(安政5年)に、日米修好通商条約が結ばれ、横浜・長崎・新潟・兵庫・函館が開港され、自由貿易が始まる。

その年、イングランド号は当時イギリスが商機を見出していた東アジアを目指して出航。ロンドンからカルカッタへ向かい、中国、韓国を経て日本に到着した。

船が長崎港に着くと、ヘルマンは海から観る長崎の景色に魅せられ、すぐに下船することを望んたが、解放されたのは、再び中国と日本を往復し、イングランド号を薩摩藩へ売却することが決まったあとであった。

解放された多くの船員は帰国する道を選んだが、ヘルマンは日本の輝く太陽、他の国には見られない美しい自然、そして日本人の親しみやすさなどに魅了され、そのまま日本に留まった。1859年、ヘルマン27歳の時である。

彼はすぐに長崎にあるイギリスの貿易商社アーノルド・グルーム商会の職を得た。

ヘルマンと同じ1859年に来日した人物がトーマス・グラバーである。

グラバーは、アーノルド・グルーム商会を引き継ぎ、グラバー商会を設立。ジャーディー・マセソン商会の長崎代理店として、船舶・武器・弾薬、そして金融と事業を拡大し、維新の志士たちを陰で動かした人物として知られている。

ジャーディー・マセソン商会は、イギリス東インド会社を前身とする大手貿易商社であった。設立から200年近くたった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際複合企業として影響力を持っている。

ヘルマンはアーノルド・グルーム商会を引き継いだグラバー商会でも働いていた。

ヘルマンの子孫は「ヘルマンは日本の最初の総理大臣の密航を手伝った」と語っている。

真偽は分からないが、おそらく長州五傑(伊藤博文・井上馨を含む長州藩士5名。長州ファイブとも呼ばれる)の欧州留学(1963年)に何らかの関与をしていたのではないかと思われる。

伊藤博文と井上馨が、たびたびヘルマンが勤める長崎のグラバー商会を訪れ、欧州の実情を聞き出していた、とも伝えられている。

1868年(明治元年)には日本とスウェーデンの間に「大日本国瑞典国条約」が締結され、正式に国交が樹立。これは日本が自ら結んだ最初の条約であった。

同年、神戸港開港。

伊藤博文は欧州から戻り、1868年に兵庫県知事に就いた。

時を同じくして、ヘルマンはグラバー商会の神戸支店開設のため神戸を訪れていた。その後、伊藤博文から神戸の外国人居留地の開発を任され、伊藤の意向に沿って居留地の設営に従事することになり、神戸に居を構えたと伝えられている。

1872年に神戸外国人居留地の行事局長に任命され、居留地の返還(1899年)まで務めた。1874年には居留地内に警察署が設置されると警察署長を兼務した。

神戸では、アメリカやヨーロッパの商社が次々と支店を開設しており、ヘルマンの仕事はそれらの外国人と日本人との仲介をすることだった。日本に対する深い理解と愛情があったからこそ成し得た仕事である。

彼はその温厚で思慮深い人柄で外国人・日本人の多くの友人に恵まれた。

ヘルマン・トローツィグは、幕末から明治維新という日本の激動期を長崎と神戸で過ごし、日本が大きく変容していく様を目の当たりにしてきた人物なのである。

彼は日本で見聞きしたことを手紙にしたため、スウェーデンに居る妹バータに度々送っていた。当時は手紙が到着するまで約6週間を要していた。ヘルマンから送られてくる日本の情報は、バータの幼い娘イーダの好奇心を大いに刺激した。

イーダが8歳になると、直接ヘルマンと手紙のやりとりを始めるようになり、イーダは日本への憧れを募らせ、日本に行きたいと考えるようになっていた。日本への憧れは、いつしかヘルマンへの憧憬ともなり、イーダが20歳を過ぎるまで続いていた文通によって、二人の信頼関係は深まっていった。

1887年(明治20年)、母国を離れて30年近くなり、55歳になるヘルマンはようやく母国スウェーデンへの一時帰国を果たすことにした。

こうして、この年まで独身であったヘルマンは、美しく成長した姪イーダと会うことになる。

〜つづく〜

【参考資料】
◇ギャビー・ステンベルグ
(Gaby Stenberg)著
“Ida Trotzig“
◇小野寺百合子著
「バルト海のほとりの人びと」

【筆者のつぶやき】
スウェーデンに建つ日本のお茶室「瑞暉亭(ずいきてい)」の保存活動に関わるようになり、いつかこのお茶室の歴史をまとめてみたいと思っていました。

アメブロやインスタで投稿し始めたこともありますが途中で挫折。
今回は三度目の正直です。

今まで知りえた情報に加えてGoogle翻訳機能を使ってスウェーデン語が読めるようになり、情報が増えましたが、書き始めてみると、幕末から明治以降の歴史が分かっていないことを痛感し、挫折しそうになりました。

しかし今回は、浅薄な知識でもいい、拙い文章でもいい、とにかく、書き終わらせよう、という気持ちで書くことにしました。

今後、情報や知識が増えて、内容を訂正したり、書き換えることがあると思いますが、現時点で分かることを元に書き進めることにいたします。

ご理解いただければ幸いです。

2024.11.18.

久保田裕子
Hiroko Kubota

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