競争中毒から逃れる方法-『なぜ働いていると本が読めないのか』を読んで-
新書ではありえないスピードで売れていると話題の『なぜ働いていると本が読めないのか(三宅香帆)』をAudibleで耳読した。
きっかけは、読書好きならご存じの方も多い、しのまきさん(篠田真紀子さん)のnote「きのう、何読んだ?」である。
ただし、「タイトルと帯文が「私に話しかけてますね…?」と思うほど刺ささった」からではない。この本が、読書と労働の関係を歴史的に紐解いている本だ、ということがわかったからだ。
著者である三宅さんがご自身のnoteにて
「本書は、様々な社会学の本を参考文献に挙げながら執筆した。社会学を始めとする人文書の入門書になるといいな、とも思っている。」
と書かれていたが、まさに、私の関心はこちらである。
前回の書評noteで『不道徳お母さん講座』を取り上げたが、これも歴史的に紐解く系の本であった。社会の複雑さをさまざま視点から紐解くというのがとかく好みなのである。
タイトルに惹かれて手に取り、その答えを知りたい方、さらに歴史的背景にあまり興味がない方は、序章と最終章と、参考図表みればOKな感じかもしれない。私は断然前半がおもしろかったから、ぜひ、ノイズを承知で読んでもらいたいとは思う。
ちなみにタイトルでいうところの「本」というのは、ビジネス書や自己啓発本のような「効率重視・必要な教養だけを手っ取り早く仕入れるための役に立つ本」というより「すぐに役に立たつわけではない、さらには役に立つかどうかもわからない、ノイズのある本」を指している。
スマホ経由で得る情報は、AIによってカスタマイズされたノイズのない役に立つ情報なので前者とほぼ同じような位置づけになる感じ。同じスマホを見るでも、スマホゲームやショート動画の無限ループ視聴などは、現実逃避的要素が強い感じだろうか。
明治・大正期に、エリートの教養のためだった読書が、戦前から戦後にかけての高度経済成長期には、新中間階級が少しでも階級をあげるため、エリートに近づくための読書となり、オイルショックからバブル期には、読書が娯楽となり、バブル崩壊後から現代においては、「効率重視・ファスト教養のための役に立つ読書」と「自分に関係のない情報(ノイズ)を含む文化的な営みとしての読書」に分かれ、著者のいう「読めない本」、というのは主に後者を指すようだ。
明治から戦後にかけては、成功に必要なのは「社会に関する知識」という意識が高く、広く教養を高めるために本を読んでいたのが、現代において、成功に必要なのは「自分に対する行動」となり、成功に向かって行動するため必要な情報を効率的に得るための本なら読むが、「自分に関係ない知識」はノイズなので、ノイズは含む本までは読めないということである。
この本を貫くキーワードは「ノイズ」、そして最終的に辿り着くキーワードは「半身」である。
著者が提案する最終的な回答は、全身労働社会(週5勤務・専業・全身全霊・男性中心)から半身労働社会(週3勤務・兼業・持続可能・ジェンダーフリー)への移行しよう、全身のコミットメントではなく半身で働こう、というススメである。
結論としては、まあそうだよね、というところに落ち着くわけだが、この本、読者の置かれている立場や環境により、刺さるところがだいぶ違うのではないかと思う。
会社員をしていたのは25年ほど前、3年間だけだし、「家事や子育てといったケア労働+オンラインでのゆるい労働」という状態が長く、ここ数年は子育てからほぼ解放されたので、知的好奇心を満たすための読書、つまりノイズが多ければ多いほど楽しめるような読書をできる余裕のある生活をしている私は、当事者というより、ちょっとメタ視点で読むことができた。
この本を、新自由主義的な価値観を内面化し、経済的な自己実現に役に立たない「ノイズ」を避けて成功のために全身で行動すべしという価値観であったり、自分の実存を仕事にする、つまり好きを仕事にすべしという価値観であったりに囚われていることに対しての警鐘ととらえるような読み方は、すごくわかるが、今の自分の関心とは少しはずれる感じである。
私の関心でいうと、刺さったのは「本を読む時間」を「自分の人生にとって大切な、文化的な時間」としているところだ。人生に必要で、労働と両立させたい「文化」は人それぞれ異なるので、「本を読む」はあくまでも「文化」のたとえのひとつである。
そして文化的な時間という言葉から、ぱっと思い浮かんだのが、日本国憲法第25条。
「虎に翼」の影響受け過ぎであるw
憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利。
著者がこの本を通して伝えてくれるメッセージは、大きくとらえると、ここに行きつく気がする。一般的に、第25条は福祉の文脈で語られることが多い印象だが、この本で取り上げている現代の新自由主義的な自己実現や行動による成長に全身全霊で取り組むことを良しとする働き方は、文化的な時間を奪うだけでなく、行き過ぎると健康も奪う。そして実際にそれは起こっている。
ちょうど、この本を読了したタイミングで、X経由で三宅香帆さんと編集者の箕輪さんの対談にたどり着いた。ノイズを排除した情報というのも、ありがたいものである。第1弾と第2弾のに記事に分かれるが、おもしろかったのが特に第2弾のほう。
一般人レベルの遥か上のレベルで全身のコミットをしてきた箕輪さん。仕事による自己実現と、とにかく行動を徹底的に追求し、やりたいこと楽しいことを全身全霊でやってきた代表ともいえる方が、燃え尽きて、健康を害した結果、いまはどのような半身の生き方をすべきか試行錯誤している状態であることがありありと伝わってくる。
資本主義社会に適合したビジネスをやりきり、これ以上やっても個人レベルでは幸せにはならないことに気づき、生き方を変えたが、世界はそのまま。
きっと誰もが持つであろうジレンマである。それに対し、三宅さんは
と返す。長期的に見れば、半身で生きたほうが経済としてもいいのではないかと。そこから第2弾は「競争中毒」からどうやって脱するかという話題に展開する。こじらせてる箕輪さんが本気で三宅さんに相談するという構図がおもしろい。
最初の問いとして、印象的な箕輪さんのフレーズが「競争のために頑張ることより、むしろ脱競争の方が、辛い道」である。
そして三宅さんの見解、「箕輪さんの本を読んでると、抑圧的な環境でアドレナリンを出すことへの快楽みたいなものを感じます。つらいなかで抑圧されて結果を出すことへの、マゾヒスティックな競争中毒。」
ここ、きっと刺さりまくる人続出な気がする。一つの競争を極めたら、次のレベルの競争を求めてしまう。ちなみに、サウナにはまるのも、マゾヒスティックな中毒という意味では同じかも?!ともwww
正直なところ、競争そのものに子どもの頃からほぼ関心のなかった私からすると、まったくに他人ごとではあるのだけど。たぶん世代的に変わらないので共感はできる。
この後、いくつかの問答を経て、最終的に
で、この記事は締まるわけだが、この答えはでないけど、みんなで考えていきましょう!的なあっけらかんとした明るさは、『なぜ働いていると本が読めないのか』の読後感とも似ている。
こう書くとちょっと否定的に聞こえてしまうかもしれないが、私はむしろ歓迎している。必要なのは、答えではない。そもそも答えなどないのだから。必要なのは、できるだけ多くの人が自分事として考えるスタート地点に立てるような、たくさんの人の感情を動かすような提案なのだと思う。
そういう意味で、この本が、重版を重ね売れているいうのは、喜ばしいことだ。そして、競争中毒の当事者に陥りやすい素養を持った世代ではなく、三宅さんのような世代の方からの投げかけであることに意味があるのだと思う。そこから、対話がはじまれば、なおよい。
競争中毒から逃れる方法は、人の数だけあるだろう。ただ、「自分の人生にとって大切な、文化的な時間」はどんな時間なのかを考え、そのために時間を使える状態をつくることは、有効な方法のひとつであることは確かだ。
追記:
そうそう、最近聞いた木下斉さんのVoicyでも競争中毒が取り上げられていた。尾崎豊の話題が出てきているのがこちらの対談との共通点。競争中毒に陥りやすい世代には、こちらがヒントになるかもしれない。