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やさしいアナキズム?!-人類学のまなざしでアナキズムを考える-

「アナキズム」と聞いて、どんなイメージが浮かぶだろうか?

Wikipediaから引用すると

国家や宗教など一切の政治的権威と権力を否定し、自由な諸個人の合意のもとに個人の自由が重視される社会を運営していくことを理想とする思想

Wikipediaより

とある。

人によりとらえ方はいろいろだと思うが、これだけ読むと、ちょっと世捨て人的なハードな印象を抱いてしまう。

では、わたしの場合はどうかというと、「アナキズム」との出会いは、ブレイディみかこさんの著書『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』であった。

アナーキックなエンパシー?

はて???である。

こちらの本は、多くの日本人にとって「共感=シンパシー」であったところに、「共感=エンパシー」という概念をぶっこんでくれたという意味で影響力の大きな本だと思う。本を読むことをおススメするが、こちらのブレイディさんのインタビュー記事が良くまとまっているので、共有しておく。

こちらの記事の中から、ブレイディさんが考える「アナーキック・エンパシー」について、理解が深まる部分を引用してみる。

「アナーキー=あらゆる支配を否定して自分自身を生きる、エンパシー=他者の立場を想像する、と言えば、二者は相反する存在であるようにも思えますが、実はどちらも適当に曖昧に、人間の中で混ざっているものです。」

「本来、アナキズムというのは、自由な個人が自由に寄り合って話し合い、ああでもないこうでもないと意見を出し合ってどうにか落としどころを見つけて自分たちでうまく共生していくこと。」

「お互いに話し合いながら、おかしいところは壊して作り直していくというのが、真のアナーキー精神です。」

「人間ってもともと曖昧で混沌としたものです。それじゃ不安だから、「こうあるべき」という固定観念に自ら囚われたり、何事もきっちりと決めようとするけれど、それじゃ生きづらくなる。もっとしなやかに生きていけばいい。曖昧さを人間の複雑さとして受け入れるのが人間の知性だとも思いますし。本来、アナキズムというのは、とてもしなやかでやさしい思想のことなんだと私は思っています。」

VOGUE 25 JAPAN  2021年7月29日のWEB記事より

どうだろう、アナキズムとエンパシーは矛盾しないし、しなやかでやさしい思想であるというイメージがもてるようになるのではないだろうか。

そして、アナキズムへの関心が高まったところで出会ったのが、ケアひらシリーズの『超人 ナイチンゲール(栗原康著)』。記念すべき、私が読んだケアひらシリーズ第1号である。

政治学者でアナキストでもある栗原康さんが書いたナイチンゲールの評伝。ナイチンゲールの神秘主義の部分をアナキズムとつなげるという斜め上からの発想が最高におもしろい一冊。栗原さんによると、アナキストって神秘主義者が多いらしい。神と一体化した超人ナイチンゲールって、イメージがかなり変わる1冊だ。

ああ、まずいまずい。全然違う方向に行ってしまった。

今回取り上げたい本は、『くらしのアナキズム(松村圭一郎著)』だった。

本題に戻ろう。

在宅ワーカーでほぼ引きこもり状態のわたしは、本は、ほとんどアマゾンでポチするのだが、たまーに大きな書店に行く機会があると、直感的にピンときた本を買うようにしている。装丁もシンプルで好みだし、人類学者が書いた本だし、出版社がミシマ社さんなので、これはおもしろいに違いないと手に入れた本である。

そして、予想通り、とてもおもしろかった。まじで、松村さんの本全部読もうと決意したくらいに。

この本の問いは、明確だ。

「国って何のためにあるのか?本当に必要なのか。」

である。

まあ、この問いが出てくるということは、裏を返せば、国なんてほんとうは必要ないのではないのかという思いがあるということなんだと思う。

国家なき状態を目指したアナキズムを手掛かりに、人類学の視点から国家について考える。未開社会において、政府や国家が存在しない状態でも人々は自分たちの秩序を作り、維持できること、国家が存在しなくとも、カオスは到来しないのだという事実が例示される。

国家はすなわち権力である。誰かが決めた規則や理念に無批判に従い、大きな仕組みや制度に自分たちの生活を委ねて他人まかせにしてしまうことは、権力に従って生きるということ。それは、なんのために生きているのか、なんのために働いているのか、どんな社会で子どもを育て、どんな仲間と共に暮らしていきたいのか、そういった理想を手放して生きるということでもある。ほんとうにそれでいいのか。国という大きなシステムは、人間を一つの部品として自らの内部に取り込もうとする。政治も経済も日々の「くらし」とは遠く離れた場所と感じている人も多いのではないか。

とはいえ、国家がなくても無秩序にならないから国家は必要ない、なんていう結論に至るわけではない。人類学のまなざしで、くらしに政治と経済を取り戻すにはいかなる技法があるのかを考察していく。全会一致主義をとる村の寄り合いの事例を提示したり、イヴァン・イリイチの提唱したコンヴィヴィアリティ(自立共生・自立協働)をキーワードにしたりしつつ、著者自身がエチオピアの村で見聞きしたこともたよりにして。

常識だと思い込んでいることを、本当にそうなのか? と問い直したり、身の回りの問題を自分たちで解決するには何が必要かを考えたり。

権力を拒み、自由と平等を尊重するかつてのちょっと過激なアナキズムではない、やさしいアナキズム。

くらしのサイズのコミュニティのなかで、個の自律を重視しながらも、自由に創造的に協力し合い、支え合い、共に成長する社会をめざす新しいアナキズム。

最近、アナキズムをタイトルに冠した本が続々と出版されているのは、社会のパラダイムが変わる節目にあって、共生や協働、多数決より建設的な対話が重視されるというような傾向が見られることから考えても、納得感がある。

本を読み進めながら、こうした新しいアナキズムに希望を感じつつ、とはいえ、批判的なまなざしも忘れてはいけないなと思うわたしもいた。キホン、ひねくれ者なのでw

そんなことを考えていたら、グッドタイミングで、愛聴している苫野一徳さんのVoicyで、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明』をテーマにした音声配信がはじまったのだ!!!

ちなみに、松村さんは、「はじめに」でアナキズムのことはデヴィッド・グレーバーに学んだと公言している。

そして、今のところ3回分の音声が配信されているが、期待通りの苫野節がさく裂している。

『万物の黎明』を”べらぼうにおもしろい”、”分厚い本を一気読みしてしまった”とその素晴らしさをほめる一方で、人類学という「事実学」としての面では高く評価するが、哲学者として「本質学」の面からは批判的に論じないわけにはいかないと。そんな感じ。

師匠である竹田青嗣先生の欲望-関心相関性の原理、ホッブズの普遍闘争原理、ルソーの社会契約と一般意志、ヘーゲルの自由の相互承認と一般福祉などをキーワードにあざやかに批判的に論じていく様は、さすがなだと感心しきり。そして、むちゃくちゃおもしろくて続きの配信が待ち遠しく、すでに各回、3回ずつくらいは繰返しきいてるwww

ということで、松村圭一郎さんの『くらしのアナキズム』について書くつもりが、ブレイディみかこさんから始まって、苫野一徳さんでまとまるという、意外な展開になったわけだが、私の好奇心アンテナはこんな感じで日々つながり広がっている。

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