全部許せたらいいのに
人を許すことが苦手だ。
人に対して、許し難いほどの憤怒を抱くことがそもそも少ない。
別に馬鹿にされたって構わないし、傷つけられたって構わない。
私だってそんなことはしてしまっているのだから。
こと昨今については、少しでも連絡を取らないと、SNSで繋がっているだけの偽物の間柄になるので、そこまで実害はない。
SNSだって、ミュートしてしまえば石ころぼうしのように手軽に存在を消してしまうことができる。
だからこそ、関係を本格的に断ち切るほどの憤怒を抱くことなんて、まあないのである。
そりゃ、短絡的にイラッとすることはある。怒ることだってある。
だけどそんなの次の日には、忘れてしまっているか諦めてしまっている。
それに、そういう時は意見や行動に怒っているのであって、その人本人に対して怒っているわけではなかったりする。
私は自分を性格が悪いと思っているが、そんな自分でも友人はそれなりにいるわけで、世間は思ったよりも寛容だ。
多分私のことを石ころぼうしで見えないふりをしている人は大勢いる。
そういう人たちは私のことをとうに忘れているだろう。
同様に、私も既に忘れてしまった人なんて何十人もいるのだろう。
ただ、関係を断ち切るほどの憤怒を覚えた相手は、逆に忘れることなどない。
延々に、怒りをぶつける相手として心の中に残っているものだ。
許すことは難しくても、諦めることは簡単だ。たぶん、かつて怒っていた相手も大概のケースでは諦めることで憤怒の対象外となり、それで忘却のテーブルに乗ることができる。
許す、という行為は、憤怒の後に信じる、という行動で完結する。
許す対象は、諦められない対象だからこそ呪いのように付き纏う。
全部許して、優しく接することができたら、どんなに楽だろうか。
今日も私は、怒りをエネルギーにして生きていくのだ。
でも、一番許せない相手は誰だろう?
私の人生遍歴を知っている者だったら、あまり迷わずに元恋人だと思うだろうが、実はそうではない。
一番許せないのは、いつだって自分だ。
あの日あの時その選択をしたのは自分なんだから。
自分の人生に責任を持つのは自分。
自分の選択に責任を持つのは自分。
The SmithsのI Know It's Overという曲に、以下のような歌詞がある。
今夜一人でいる時点で、全て自分の責任なんだ。
I know it’s over、もう終わっていることは分かってる、なんてのは自分自身に対しての諦めだ。
ということは、自分を許せない時点で、まだ終わっていないことの証なのだろう。
だから私は今日も何とか生きている。許せない自分と共に。