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休日に考える自分とお金と言葉のこと

 休日はずっと家で過ごした。

 どこかに行こうと思ってシャワーを浴びて支度をしたまではいいが、どこに行くのか皆目見当がつかなかった。だから家で掃除をしたり、トレーニングをしたり、あとは煙草を吸ってボーっとしていた。

 年末年始の破滅的な気持ちも少しは落ち着いてきて、別のことをすることで考えないようにするというところまでは、こぎつけた。

 自分にはうつの症状がみられるが、躁鬱の気があるかもしれないといわれたり、よくわからない。多分厳密な基準というのはないのだろう。そう考えると自分が境界性パーソナリティ障害なのではないか、といろいろ調べる中で思うようになった。

 ただ、実際にこれらの精神障害と言われるものの治療法は薬物を除けば基本的には認知療法が主体であるから、別に自分がどの障害なのかというのはそこまで関係ないような気がしていた。どうせ人に説明しても個別に対応できるほどの人はほぼいないのだし。僕も分からないし。

 まさかまたこの本のお世話になるとは思わなかった…

 一時期は毎日読んでいた。ここに出ているワークもやっていた。効果はあったかどうかはわからないけど、でも言っていることは正しいと思えたし、僕にとってこの本が言うように生きることの方が、すこし楽だった。

 僕の場合、症状は自分が生活をできているかどうかで悪化するかどうか決まるらしい。それは、つまり自分の生活水準のことであって、お金に余裕があるかないかということだ。節約する方法は結構見つけたし、いろいろと楽しみながらやっているのだが、ふとなんでこんなに切り詰めているのだろうとむなしくなり、昔のこと考えてしまうことがある。

 給料は今の二倍以上だったしボーナスもあったし、まぁそれに自分が見合わなかったわけだから仕方なかったのだけど、なんだか本当に落ちぶれてしまったなとしか思えなかった。

 外に出なかったのも、行く場所がなかったのもあるが、どこかに行くとお金を使ってしまうのではないかという懸念があったからでもある。お金に困らない生き方は今まで仕事によって支えられてきたわけだけど、今はそれが今一つな状態だ。上記の本でも、仕事が自身の価値を規定するものではないという項目を読み返していた。

 バイトは週5日から6日で、ほかのバイトを入れるのはちょっと難しいので、クラウドワークスとかで、在宅でできるものを少し探してみようと年始くらいからちょこちょこ探している。相変わらず眠れたり眠れなかったりする中で朝は死にたくなり、昼から夜にかけては殺したいほどの怒りと憎しみとだるさの中で生きている。そんな自分を客観視するのも嫌だし、誰かに見られるとそんな自分が透けて見えるようで、誰ともかかわりたくなくなってしまう。

 と書いていたが、よいものとの出会いもあった。「恋は雨上がりのように」の映画が結構よくて、主題歌のフロントメモリーが気にいったのでCDを借りた。ついでにリーガルリリーのアルバムも一枚借りてみた。作中でも言っていたけど、人生のその時必要な作品は、それを求め続ける限り自然に出会うようにできている気がする。

 心に響く言葉は気づきの音がする。忘れてもいないし思い出してもいない。普段なら間接視界に入るくらいのおぼろげなものが急に光って自分の中に染み込んでいく。

「おんがくも人を殺す」し僕はもう「がんばれないよ」

チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')