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書くことについて ー 第2回小鳥書房文学賞を終えて

第2回小鳥書房文学賞に応募した。結果は一次審査は通ったものの、受賞はならなかった。受賞者発表と共に公開された審査員の金川晋吾さん、千葉雅也さんの講評が公開された。特に千葉さんの"文学的工夫"が僕にはすごく示唆されるところがあった。

 日記であるとしても、強いものは強い。内容の深刻さも確かに係数なのだが、それだけでなく、訴えかけてくる文の身体の力である。

 急にテクニカルなことを言えば、その強さはどうも、文学的工夫をそれほどしていないことと関係があるように思う。ただ、「それほど」というのがポイントで、それをどう捉えるかが難しいところで、文学的工夫を限りなく廃するという極端を目指せばいいわけでもなさそうである。

 ある生活実感が、それほどの工夫はなく、しかし独自のリズムによって提示されている。そのようなものが、私の意識を引きつけた。いや、無意識を引きつけた。具体的な内容ではなく、「何か書かねばならないものがある」ということが伝わってきて、それがひとごとではないと感じるのである。読者である私にも、まだ書かなければならないことがあるという思いを喚起する。

 書こうという気持ちが、異なる境遇の間で共鳴する。

 そのような、出会いでもあり、すれ違いでもあるようなアンビヴァレントな距離において、何かがほとばしる。それを私は力と呼びたいのだと思う。テキストと私の間に、ある緊張感が生じる。そこから雨が降り出し、あるいは雷が鳴り出すような黒雲を形成し始めている。

 そんな空模様の怪しさを感じた作品を、私は良いと思った。

小鳥書房note『第2回小鳥書房文学賞 受賞作品が決定いたしました』より
千葉雅也さんによる講評

自分の応募した日記を改めて読んでみると、まずは随分とかっこつけているなと思った。それは千葉さんのいう文学的工夫が、それほどではない量で施されていたということだ。

かっこつけというと、どこかそのこと自体がよくないと思うかもしれないが、かっこつけること自体はきっと問題ではない。かっこつけること。それには自分の確固たる美学、こだわりがある。かっこつけとは虚構的ではあるが、正直であると思う。無意識からくるようなかっこつけや、自分がどうしてもこだわってしまうかっこつけは、「何か書かねばならないものがある」的なものであり、それほど工夫のなく、独自のリズムが形成されているかもしれない。もちろんそれが何かに影響を受け過ぎて、コピー的になってしまうことはあるだろうが。

しかし、そんなかっこつけとは別のかっこつけがある。それは愛される為にかっこつけることである。恐らく僕のかっこつけは、愛される為のかっこつけだったのだと思う。それは「何か書かねばならないものがある」とは別なのものになる。

かっこつけることの根っこに愛されたいというのがあるなら、なぜ僕は素直に愛されたいと書かないのだろうか。それこそが「書かねばならないもの」ではないだろうか。愛されたい、もしくは何かを切望する気持ちや、悲しみ、孤独などは、誰かへ求める形ではなく表現されることがある。それを一言で言うなら”叫び”だろう。叫びは誰かに向けられたり、甘えたりするものではない。叫びは強い。叫びはそれこそ自分のコントロールを超えたような無意識的なもので、工夫とは隔たったものだろう。このように愛されたい気持ちが叫びとして現れるのであればよいのかもしれない。しかし、僕の場合はどうやら、かっこつけとして現れてしまうようだ。愛される為のかっこつけ、そこにはそれほどではない量の工夫があり、弱さがあるだろう。

僕はこれからどこに進めばいいのだろうか。僕にはどうも、自分の確固たる美学的なかっこつけは難しいと思う。そして、愛されたいという気持ちを叫ぶことも難しい。そういえば僕は昔から自分に自信がなく、最近は意識して控えてるが、自分を卑下して笑いをとろうとするような道化的性質がある。それならば他の道を考えよう。愛される為でないのであれば、愛する為にというのはどうだろうか。
愛する為に書くことはどういうことだろう。それは自分の好きなことなど、書きたいことについて書くこと、言葉に残したいことを書くこと、そして、誰かの為に書くこともそうだろう。僕にとってそれは、愛されたいというかっこつけを抑え、別のところに連れていってくれもする。
しかし誰かの為というのはとても難しい。よろこばせることが相手の為になるとは限らない。かといって、これは相手の為になることだ、極端に言えばあなたの為にしている的なことも、相手の為とは言えないだろう。また、よろこばせようとして、こうすれば人はよろこぶといったようなロジックに極端に偏れば、それは人をモノ的に扱うことであり、支配性があり、他者に対する敬意や信頼を欠くことになる。しかし、これもかといってだが、他者を全く意識しないことはできるだろうか。それは独りよがり以前に、不可能なことだろう。蛇足だが、よろこばせようとして、また道化的性質が出てしまうことも考えられる。

たぶん、誰かの為に書くということは、ただ読んでくれている人のことを思って書くということではないだろうか。
どんな文章も私的な綴りであるのかもしれない。日記であれば、今日はこんなことがありこんなことを思ったということ。思想であれば私はこう思い考えているということ。他にも私はこういうのが好きだと感じているや、こういうのが面白いと感じているなどの私的な綴り。すべての文章は私的な綴りであり、どこか手紙でもあるように思う。その手紙には消えそうな薄い文字で、あなたはどう思うだろうか?といったことが書かれているように思う。
また、誰かをよろこばせることと、誰かに何かを届けようとすることには違いがある。一見すると、前者の方が他者によりそっている感じはあるが、はたしてどうだろうか。
私的な綴り、手紙を受け取っている人がいる(受け取ったものを他の誰かに手渡してくれる人もいるだろう)。あるいはいつか僕の私的な綴り、手紙を読み、受け取ってくれる人がいるかもしれない。その人のことを思い、信頼し、委ね、ただ書き続けること。それがたった一人だとしても。
それは例えば好きなことやものではなく、もっと自分の暗い欲望であるとか、ネガティブなことを素直に書くことにもつながるだろう。そういったことを受け取ってくれる人がいるかもしれない。
そして自分の書いた文章が受け取ってもらえることは、素直にとてもうれしいことだ。

ここまで自分の今回応募した日記を批判的に検証してきたが、忘れてはならないことがある。それは一次審査を通過したということ。638作の中から選ばれた、20作のうちの一つに入ったこと。受賞はされなかったが、評価をして頂いたということだ。だから自分の応募した日記をすべて否定することはできない。もしかしたらあの弱々しさにも、何か別の魅力があったのかもしれない。だから僕は今自分の文章について、誰かの意見を聞いてみたい気持ちがある。ここまで色々考えてきたが、僕に考えられることは僅かである。色々な人の声を聞けたらと思う。

落選したことは残念な気持ちもあるし、悔しい気持ちもある。しかし、今回落選したことによって他の可能性を知れた。もし受賞していたら、僕はあのままの文章の形で進んでいたかもしれない。もちろんそれもいいかもしれない。しかし、落選し、講評を読み、改めて振り返ることによって、また違った可能性を考えることができた。文章を書くことについて考えることができた。その複雑さを考えることができた。

最後に、審査員の金川晋吾さん、千葉雅也さん、落合加依子さん、応援団長の岸波龍さん、ご一読、審査頂きましてありがとうございました。今回このように、書くことからはじまり、次の可能性や、書くことそのものについて考える機会を頂いたことに深く感謝致します。
日々言葉を与えてくれる、出会い関わることができた人たちにも深い感謝をします。
そして、いつも僕の文章を読んでくださっている方にも深く感謝をします。ありがとうございます。


今回応募した日記はこちらで読めます。

第2回小鳥書房文学賞の講評はこちらで読めます。


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