【読了】乗代雄介「最高の任務」

乗代雄介「最高の任務」読了。20240106

昨年読んだ著者の「旅する練習」がかなり良かったので何冊か積んどいたうちの一冊をようやく。中編が2つで、「生き方の問題」と表題作。

「生き方の問題」は、20代半ば男性が2つ上のいとこの女性に宛てて書いた長い長い手紙そのもので、2人が再会した1年前のある日のことについて、小学生の頃からの思い出を遡って延々と綴られている。ある意味登場人物は一人もおらず、ただ書かれた手紙だけがある、という至極シンプルな小説とも言える。そこには手紙しかないので、果たして誰が読んでいるのか、そもそも読まれているのか、それ以前にちゃんと投函されたのか、と考える余地が生まれ、なんだか一般的な独白小説よりもかなり心細い。悪い意味で言っているのではない。

この話を読んで思ったことがあるので、少し私自身のことを書こうと思う。

子どもの頃から、誕生日とクリスマス以外で欲しいものを伝えるのが不得手だった。生得的な気質で、欲しがるという行為を極端に浅ましいと感じてしまっていたのか、あるいは長男としてわがままを抑え込まれ、欲しいと言っても無駄であると諦念してしまっていたのか。
そんなんなんで、本当はコロコロコミックを読みたかったけど言い出せなかった。親はそうとも知らず小学館の「小学n年生」毎月買ってくれた。もちろん小学n年生は小学n年生で楽しく読んでいたし、当時付録で付いてきたポケモンスタンプという切手風のやつもしっかり集めていた。ただ、掲載されてた漫画の印象があまりない。弟が買ってもらっていたコロコロの方が、借りて読んだ程度にしては覚えている漫画が圧倒的に多い。
考えるに、コロコロ派の人はずっとコロコロを買う(当たり前だ)けど、小学n年生派で、毎年毎年小学3年生を買い続ける人はいない。小学生にしてそんな定点観測的視座に立ってる奴はいない。そうすると、漫画の連載というのが難しくなってくるのではなかろうか。小学n年生の誌上で連載されていたとしても、その作品は小学n+1年生には引き継がれない。年度末での分断は不可避であり、読み切り漫画の掲載に留まる。結果、今私の頭にはこれといったタイトルが浮かばないのである。ちゃんと調べてないけど、そういうことなんじゃないですか?
小学n年生派に甘んじ、コロコロ派になるための気概もなかった少年は、漫画というものに縁が薄い青年になる。中学に上がってもジャンプなど踏まず、クラスメイトに貸してもらったワンピースとスラムダンクとGANTZだけは高校の時に読んだ。家にあった漫画は、親が買っていたコナンと金田一で、ミステリー好きの父の趣味である。ほんのり漫画に憧れるも、値段的にも高校生が親にねだるものではなく、とはいえ毎月のお小遣いはゲームソフトやらなんやらに使ったらそんなに残らない。
なので初めて自分が自分で選んだ漫画を買ったのは大学生になってからだった。アルバイトにより使えるお金が飛躍的に増えたこと、片道2時間の通学により行動範囲が飛躍的に広がったこと、漫画に縁の薄い青年はこの両翼を得て、妹が途中で買うのをやめたソウルイーターの続きを買うというあまりに小さな羽ばたきを試みた後、偶然か必然か、突如としてヴィレバンに出会ったのである。
見たことがない景色だった。こんなに通路の狭い店があるのか。世界にはこんなにも魅力的な場所が隠されていたのか。あの日ヴィレバンに入店した私を、大海に放り出されたスズメと例えるべきか、密林に迷い込んだカモメと例えるべきか、とにかくひな鳥でしかなかった私は海の広さに圧倒され、森の深さに胸が騒いだのであった。そこには当時の私が全く見たこともないタイトルの漫画が所狭し、まさに所狭しと積まれていた。おそらく体感2時間くらい滞在して、悩みに悩んだ挙句、最後は衝動にまかせて3冊の漫画を買った。読んだこともない漫画を、自分の興味で選んで、自分のお金で買う、そんな初めてを捧げたタイトルは「臨死!!江古田ちゃん」「R-中学生」「ディエンビエンフー」という顔ぶれであった。
江古田ちゃんについては、当時のバイトの先輩から勧められていたことがきっかけになっているので自己選択の気配はやや薄いが、残り2冊は誰からの教えもなく本当によくわかんないまま買った。根がマイナー志向というか、みんなが持ってるようなのは選びたくなかったのだ。その上で、雰囲気が好みのものを手に取ったのだろう。
「R-中学生」はゴトウユキコ作で、中学生と芽生えた性にまつわる暗いトーンの短編集。いまだに漫画には疎いままなので今調べたところ、小説に結びつけるなら、こだま「夫のちんぽが入らない」をコミカライズした人らしい。なるほど。
「ディエンビエンフー」の西島大介氏は、関西在住の人ならytvのシノビーの作者と言えばピンとくる人もいるだろうし、こちらも小説に繋げれば、越谷オサム「陽だまりの彼女」の文庫版や倉狩聡「かにみそ」などの装丁を手がけていたりする。そのポップなキャラクターでベトナム戦争を描いたギャップ溢れる作品で、私は一発で虜になった。虜になった、ことにした。今思えば、この漫画自体を熱烈に愛していたというより、こんな隠された名作を目にかけている自分自身にうっとりしていたのだと思う。やはり、漫画を、特にマイナーな作品を知っているということに、どうしようもない憧れを抱いていたのだ。メジャーで戦う自信のない者のアイデンティティ防衛策と分析してもいい。
ともあれ、少なくとも表面上はハマったので、勢いで当時の最新刊まで揃えたのだ。しかし、その熱意は長続きせず、また別の憧れに繋がっていった。サークルの部室に漫画を置きたい、というしょうもない憧れである。ちょうどその頃、私が部長を務めていたサークルが大学の公認サークルに格上げされ、晴れて部室を授かったのだ。授かった部室は、あっという間にサークルの共通備品、個々人のちょっとした荷物、誰が持ってきたのかゲームキューブ、などでごちゃついたよくある部室になった。よくある部室といえば、名前しか知らない先輩が残していった名前も知らない漫画が本棚に鎮座しているべきだが、なにせぽっと出のサークルのため、そういう「長い歴史の中でいつのまにか」的なものに乏しい。乏しいからこそ、手にしていないからこそ、憧れる。そこで私は、その「いつのまにか」を「今」にしてやろうと、未知の後輩のために、名前も知らない先輩として漫画を置いていってやろうと、ディエンビエンフーを部室の本棚に収めたのである。後世に何かを残したいという気持ちは、学校の机にコンパスの針の方で好きなバンド名を彫る中学生と同じで、種を永らえんとする生き物としての本能なのかもしれない。
自分が知らない後輩と後輩が「この漫画、めっちゃ面白いんスけど、誰のっスか?」「知らん。なんか昔の先輩が置いてったらしい」とか会話してほしい。いつか、卒業して何年も経った頃、なんかの拍子に寄った部室で「うわっ、これ昔俺が置いてったヤツ!まだあったのかよ〜。持って帰ろっかな?(笑)(持って帰らない)」とか言いたい。当時未完の漫画だったので、未知の後輩がその続きを買って、それが受け継がれていったりなんかしちゃったりしてほしい。
今私は関東の地を離れ、関西にいる。大学を卒業して何年も経ったが、今のところ部室に寄る拍子なんてものは訪れていない。そして、最大限の希望的観測をしたとしても、脈々の後輩が続巻を買い足し続け、部室で全巻揃いの完結、には至っていない。これは悲観でも予言でもなく、ディエンビエンフーは、実は私がヴィレバンに出会う僅か1ヶ月前に月刊IKKIでの連載を終了していたのである。そこから、単行本描き下ろしという形式で細く繋がっていくのだが、第三部の途中で月刊IKKI本体が休刊となり、単行本の描き下ろしも途絶えた。2016年のことである。
その頃には、遥か東の故郷に置いていったベトナム戦争の漫画のことなんぞ忘れてしまっていた。
時たま思い出してググったりしたが、上述した未完の経緯は実は複雑な事情の一部に過ぎず、掲載誌の2度の休刊、「0」、リメイク版、KADOKAWA版、小学館版、新装版、TRUE END版と、過去に何が起きていて今何を信じればいいのか、その深い混沌を解き明かせず、結局続巻を買わないまま時が流れた。
別にきっかけがあったわけではない。ほんの2ヶ月前になんとなくまた思い出して、少し調べてみたのだ。それまでのごちゃごちゃは結局よくわからないままだが、「完全版」なるものが電子書籍で出ていて、めでたく完結したようである。これを買えばいい、という指針をようやく手に入れたが、ほしい物リストに入れるだけで購入には至らず。これは、私という人間が貧乏性であるため、自らの意思で置いてきたとはいえ、一度定価で買ったものをまた自分で定価で購入するのがアホらしいと思ってしまったからである。貧乏性が一番貧乏なのはその心に違いない。
しかし貧乏性も発揮してみるもので、年末だからなのかなんなのか、急にえげつないセールになっていたのだ。件の完全版が1冊11円。元値の僅か1.4%で投げ売られており、祭だった。ディエンビエンフーどころか、西島大介作品を片っ端からカートに入れ、46冊で506円、ポイントで支払った。めちゃくちゃだ。
この祭は西島大介祭ということではなく、電書バトという電子書籍取次サービス主導のセールのようで、今もなお漫画と縁が薄い私でも、これはさすがに他のセール対象品も見ておこう、となる。で、追加で114冊購入したその中に、「やれたかも委員会」という作品がある。年末年始、嫁さんと嫁さんの両親、姉夫妻、姪っ子たちの視線をかいくぐりながらスリリングに5巻まで読んだ。基本的に一話完結で、依頼人が過去にあった「あの時やれたんじゃないか?」という思い出を披露し、それを委員会の3名が「やれた」か「やれたとは言えない」で判定するという漫画である。やれた、というのは、つまり、挿入し、果てる、ことに他ならない。
この話を読んだ時、私は「やれたかも委員会」を思い出さずにいられなかった。「この話」が指すのは、乗代雄介の「生き方の問題」のことである。ただいま。

手紙の書き手の20代半ば男性は、2つ上のいとこの姉ちゃんに幼少期より恋心を抱いていた。心を温かく通わすようなものではなく、下半身が先行するようなそれは劣情に近い。
手紙のフォーカスは、1年前に2人が再会し、一緒に山を登った日に当てられている。書き手は、いとこの言動に自分への思慕を嗅ぎ取ったり、大きな胸や美しい膝裏を意識してしまったり、いとこの今の境遇を思い図ったりしながら山を登る。平日の田舎の山は、人気が少ない。「やれた」のかどうかの判定はここには書かないでおく。
やれたかも委員会はギャグ的であり、その中に妙な生々しさを含んでいるのに対して、「生き方の問題」の手紙の書き手はとことんシリアスである。で、結構癖のある持って回った文体。一般的な小説の地の文であれば、まぁくどいけどそういうもんかな、と受け入れられるけど、これが手紙の文章として読むと、不自然だし寒いし、かなりキツイ。手紙の中でも、それについての理由付けのようなことが書かれるけど、納得するほどのパワーはなく、むしろ言い訳めいて聞こえて、もう半歩後ろに下がりたくなった。

表題作「最高の任務」も、「生き方の問題」と共通する要素があり、3〜4親等あたりの少し離れた親族が特別密接な関係者として出てくること、書かれたもの(手紙や日記)を主軸に小説が構成されていること。ちなみに、去年読んだ「旅する練習」も、上記2つの要素を備えている。
もう一つの共通点として、著者の小説が時にロードムービーと呼ばれるくらいだからきっとこれは作者の持ち味なのだろうけど、風景描写・地理的描写が非常に多い。多いというか、それが屋台骨になっていて、個人的にはそういうのを読むのが苦手なので、こちら側に非があるものの、しんどい読書だった。
「最高の任務」の主人公もこう書いている。"私はこの目に映る景色について書くことが好きだ" と。そこは決定的に私と合わない。
この風景描写に目をつぶるにしても、あとに残るエピソードもあまりしっくりこなかった。浮いてるというか、嘘くさいなぁという疑念を抱いてしまい、痴漢の話も本棚を維持する話も、小説をするために書かれているように感じられた。会話とかは全然自然なんだけどなぁ。かこつるどのくだりも面白いし。
そうやって、あまり掴みきれずに読み進めたのにも関わらず、ラスト付近目的地が近づいてきたら、なんか知らないけど少しこみ上げるものがあって、そこの説明はできないけど、読後感は思いの外、良かった。

あと、文庫版の解説は町田康で、ちゃんとしたこと書いてて可笑しみがある。
ギャグ的な漫画にリアルを感じて、シリアスな小説に不自然さを感じる。そして、シリアスな町田康にギャグを感じる。
全く不思議である。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集