ワニについて考える言語(文学フリマ東京38)
以前からエスペラント運動というものに参加しています。今回、その活動のなかで生まれたゲームブック『クロコディーロ / Krokodilo』※を、5月19日開催の文学フリマ東京38※2にて頒布します。その中身と周辺についてエッセイ的にご紹介します。(Webカタログリンクはこちら)
※ 1000円を予定。こちらでも販売中。
※2 今回から入場料1,000円(税込)となります。
クロコディーロとはワニのことです。つまり、エスペラントという言語でワニのことをKrokodilo(クロコディーロ)と呼びます。なぜワニなどというタイトルなのか、というと、これが特定の状況で「母語を話す人」を意味するからです。
母語を話す人を名指し、それを浮き上がらせるためにワニという突拍子もない名刺を使う。これがこの言葉の意味です。それは、母語を話すことが当たり前でなくなったら、というちょっと分かりづらい状況を想像させてくれます。
最近、すこし設定の近い本を読みました。多和田葉子『地球にちりばめられて』です。本筋の本から少し脱線しますが、これがとても面白いので紹介します。主人公Hirukoは今はなくなってしまった国からヨーロッパに留学に来ていた学生で、現在は独自の言語「パンスカ(汎スカンジナビア語)」を使ってデンマークで暮らしています。彼女は母語を話せる人が全然見当たらないので、何とかその話者に出会えないか、という旅をすることになり、それに偶然巻き込まれるようにして仲間たちが出会って進んでいきます。この本は3部作になっていて、筆者は今のところ2作目まで読んだところです。
主人公Hirukoはそれと明言されないものの日本人で、彼女の母語は日本語のようです。そして、彼女にとって、また他の人にとって、日本語を喋ることは既に〈希少な何か〉になってしまい、まるで普段は見ることのできない貴重なお宝(もちろん、主人公の人格に深く結びついている)のように扱われています。
さて、母語を話すということが浮き上がってくる状況、という意味では、この設定は巧みです。それと比べると「クロコディーロ」は、まるで遊びの設定を受け入れるようにして、母語を話すということを異常なものにする点に特徴があります。
遅くなりましたが、このゲームブック『クロコディーロ』のあらすじは以下のようなものです。
このSF世界では、全世界の人が普通はエスペラントという言語を喋るようになっています。そんな中で、誰かがかつての「母語」を喋ると、それはクロコディーロと呼ばれてしまう。そんなディストピアな世界観です。これはまた、現実のエスペラントの言語コミュニティのなかで、皆がエスペラントを喋るべきイベントの最中に母語を含む他言語で喋ってしまうことを「Krokodili(ワニする)」といって非難する言い方をもじっています。
この本自体が一つの遊びの本として用意されていますが、そもそも、題材にしている「Krokodili(ワニする)」という言い方自体がとても遊び心のあるもので、実際に使われる現場であるエスペラントの言語コミュニティ自体も、基本的には余暇に行われる遊びの空間になっています。そのため、ここでは母語を話すことが、戯れに異化されているかのようです。
とはいえ、遊びは諸々の文化の出発点でもあり、その交差点でもあります。遊びに付き合う心がなければ、Hiruko達も集まって進むことはできないでしょう。また、遊びがなければ言語に魅力が無くなってしまうに違いありません。
そのため、ここで真剣に遊びを推し進めることにも意味はあるでしょう。もしエスペラントという小さな言語が世界を統一する言語となり、現在はコミュニティ内部で遊び的に使われる「ワニする」という動詞が感染症を指す言葉のように扱われたとすると、、?
物語の内容はそれほど難しくなく、読みやすいものです。少し選択肢なども出てきて、考えさせられることもありますし、日本語とエスペラントの対訳でもあるのでちょっとした異文化体験になるかもしれません。
もし興味が湧いたら、ブースでぜひ手にとって見てください。
ところで、ワニについて考える言語、とはつまりエスペラントのことです。筆者としては、この間、エスペラント運動というものに関わってきて、改めてこの言語の意味について考えてしまうこの頃です。ある意味で、エスペラントは思想的な内容がある運動です。つまり、言語権を守ろう、とか、平等な国際語を!というような。それはまた、とても手間のかかる社会運動の一形態でもあります。
しかし、筆者自身は、このエスペラントという言語を通すことで、自分が母語である日本語とどういう関係にあるか、ということをよく考えさせられている気がしています。たしかに、エスペラントコミュニティの中でも、国内の会合ではほとんどが日本語で会話されます。しかし、一度海外でイベントに参加すれば、また国内でも海外の方を招いてみれば、そこにはクロコディーロ(母語を話してしまう人)もありうる空間が広がるのです。自分の母語が日本語でなかったら、という想像力も何となくその辺りでしみ出してくるような気がしています。
また、重要なのは、この空間がどこまでも遊びの雰囲気に満たされていること、でしょう。そこには気まずさは特にありません。たしかに、それがかえって、だらけた態度を生み出してしまう可能性もあります。とはいえ、とことん真剣に言語(という体験)に向き合うこともまた可能なように思えるのです。
そういうわけで、私としてはなお言語についてあれこれ考えるのにエスペラントを一つの基準としていきたいと思います。
front image "Sleeping crocodile" by Ruth Hartnup
CC BY 2.0 DEED, trimmed for upload(link)