引き返すこと・逃げることについて(「発表前注釈」4/24)

2021年5月の文学フリマで出品をする。その先触れとして、筆者の考えを書き留めていくシリーズを続けている。今回は引き返すこと・逃げることについて書こうと思う。

このテーマはまず何よりも「前進」をよしとしていた近代の逆張りという意味でいわゆるポストモダン的なものだ。現実の生活・社会・政治においても発展の行き先が不透明になるにつれて、逃げることを良しとする言説は相対的に増えているように思う。筆者としても生活上で「逃げる」選択をする機会は多いし、それを肯定的に捉えることは精神衛生上必須の事項でもある。

思想的には「逃避」はドゥルーズ・ガタリによって言及されているらしい(「逃避線」として)。とはいえ、筆者の考察はまだ彼らのものと交錯していないので、彼らの思考をどこまで汲み取れるか自信はない。一先ず、今度発表する冊子には、”引き返す・逃げる”ことの考察を自分なりに行っている。

筆者の思考は、結構俗っぽいところから始まる。昨夜に映画「アポカリプト」を見たというきっかけがある。そもそも”引き返す・逃げる”という構図への興味から、この映画が好きなのである。スペインが侵略してくる直前のマヤ文明を舞台にして、略奪者たちからひたすら逃亡する主人公のアクションが繰り広げられる映画である。印象深いセリフとして「新しい始まりを探す」というものがある。これが物語の前半に提示されて、物語のラストにまた出てくる。圧倒的な敵から逃げて、自分と自分の大事なものを守る、というストーリーの基本線となっている。加えて「恐れるな。恐怖は心の病だ」という意味のセリフもあり、これは直接の言葉だけでなく、ほとんどあらゆるシーンにおけるテーマとして提示されている。ここで提示されているのは、恐怖による統治へと屈するのか、それとも「新しい始まり」を信じて逃走するのか、という立場の違いである。この対立において特に重要なのは、統治者は逃亡するものを決して許さない、という事実である。

同じ構図で筆者の好きな映画は「マッド・マックス 怒りのデスロード」である。ネタバレ含めて遠慮なく考察してしまうことにしよう。この映画のストーリーは基本的に「行きて戻りし物語」ではあるのだが、見方を変えると二重の意味で”引き返す・逃げる”ものでもある。第一にフュリオサ達一行がイモータン・ジョーの支配から逃走する、という意味で。第二に、不確実な逃走を続けることから、新しい統治の可能性へと引き返す、という意味で。ある意味では、可能性にかける逃走から「新しい始まり」の概念を掴む過程としてストーリー全体が組み立てられているわけである。すなわち、フュリオサがイモータン・ジョーの代わりになることによって、虐げられたものたちが声をあげることによって、である。

しかし、両方の映画に言えることではあるが、「新しい始まり」には既に「新しい終わり」の気配が忍び込んでいる。アポカリプトの場合には、スペインの侵略が暗示されることによって、そしてマッド・マックスの場合には、マックスが放浪の旅を選択し、そして最後に以下の文章が現れることによってである。

“Where must we go, we who wander this wasteland, in search of our better selves”  The First History Man

一応訳すなら「どこへ行けばいいのか、この荒れ地を放浪して、より良い自らを探す私達は」(歴史の始まりの人)となるが、訳が拙いのでやや恥ずかしい。

映画の最後で、マックスは「新しい始まり」を共にすることを諦めて、ウェイストランドのなかに消えていく。彼はまた別な困難と出会い、そして逃走する者たちが「新しい始まり」へと至る手助けをするのではないか。そのような予感とともに、荒廃してしまった土地のなかで「より良い私達」を探す試みが、いつも新しい逃走と新しい始まりを巡る「歴史」として循環する気配もあるのである。話が抽象的になってしまったが、アポカリプトで言うなら、村はマヤ文明内での略奪によって消滅し、主人公はそこから辛くも逃走したが、今度はスペインの侵略から逃走しなければならないのである。そのような逃走と「新しい始まり」の探求の繰り返しによって、歴史は成り立っているのではないか、という感覚があるのである。

この感覚は、歴史観についての古いイメージ、すなわち「歴史は繰り返す」という歴史観と相まって非常に苦しいものでもある。歴史はいつも苦難に満ちた「始まり」と「終わり」に彩られているように思えるからである。

この「始まり」と「終わり」をもう少し一般的に考えるなら、私達は各世代としてこの世界に生まれてきて、いつも先代の作った秩序を受け継ぎつつ、それを自らに合わせて変えていくことで歴史を紡いでいく。その際に、不条理な秩序を解体したり、領域の境界を再設定するという作業が必要になる。これが、いつの時代にも闘争として成立するのではないか、といえる。アポカリプトであれ、マッド・マックスであれ、世界史的な世代間闘争という文脈には当てはまるわけである。

しかしながら、以上の歴史観を筆者としては無条件に受け取りたくないのである。なぜなら、以上の歴史観は、前回「ポストクリティーク」のなかで触れた、セジウィックが言う「世代間対話」の息苦しさそのものだからである。先代の秩序を批判し、それを乗り越えるという作業のためには、各自の要請を完全に飲み込んだうえでの”対峙”が必要であろう。しかし、そのような対峙は、それ自体非常に暴力的になりうる。

ここで改めて、アポカリプトとマッド・マックスの特徴的なキーワードへと立ち返ってみたい。「新しい始まり」「恐れるな」「より良い私達」「荒れ地のなかの放浪」「歴史の始まりの人」といった言葉たちである。私はこのなかに、単に対峙する勇気としては表現できない、”引き返すこと・逃げること”の徳が含まれていると思う。

最後に、ダメ押しではあるが、この理念を明瞭に表している(と思われる)作品としては「ヴィンランド・サガ」という漫画もあることを書いておきたい。これはまだ進行中の作品でもあるので、あまり詳しくは触れないでおこう。

筆者の思想の展開は、来年の5月に発表しよう。しかし、同じ問題意識が共有されているこうした作品たちは、既にそこにあって、ある種の連関・文脈を用意しているように見えるのである。非常に大衆的でありながら、どうしてここまで思想的に共鳴するのか不思議であるし、いわゆる時代精神のようなものを感じるのだが、どうだろうか。


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