ひかげのたいよう #16
途方に暮れ、苦しみに耐えかねた私は、いっそのこと全て投げ出してしまえばいいという結論に至った。
「私、大学辞めることにしたんだ!」
周囲に宣言して回った。そう声に出して言うことで、心が物凄く軽くなっていくのがわかった。これで苦しみから解放されるとほっとしていると、部活の先輩が休学をしてはどうかと私に勧めてきた。このまま辞めてしまったら絶対に後悔する。後悔してもやり直しはきかないのだと説得された。せっかく風船のようにふわふわ浮いていた心が、岩のようにずしっと地面へ落ちた。休学をして一年間休んだとしても、またここへ帰ってこなければならない。今と何も変わらないじゃないかと思った。この説得を無視すればいいのだけれど、私は先輩の言葉を信頼していた。たとえ苦しくても
「取り敢えず卒業だけはしたほうがいい。」
そう言った先輩の言葉を、当面の自分の目標として一先ず休学する道を選んだ。心療内科への通院や、両親の説得にも先輩は力を貸してくれた。特に難関だった両親の説得は、書道部の同期と先輩の尽力のおかげで何とか成功し、私はこの翌年の四月から一年間大学を休学することになった。同期が次の進路に向けて大学生活最後の一年を切磋琢磨している中、私は私で今の自分に必要なことをすることにした。とは言っても、大学に行かなくなれば家にいるしかない。それでは少しも心が休まらない。家にいる時間を減らすため、休学中はアルバイトに没頭した。休む為の休学だったはずなのに、働けば身体は疲れるし、人間関係で悩み精神は疲弊してゆく。結局心が休まる暇もなく休学が明け、同期が卒業していった大学に一人虚しく復学することを余儀なくされた。昼間は大学、それ以外は書道部へ入り浸るかアルバイト。できるだけ“あの人”と接触しないよう逃げ回ってばかりいた、そんな大学五年目の冬の初め。私は心の病であることを告げられる。後に虐待が原因の複雑性PTSDと診断が下される十四年も前。二十三歳の時だった。
その当時は親からも見放され、生きることがあまりにも辛く、大学に設けられた心の相談室へ駆け込んだ。相談室に臨時で来ていた医師に心療内科への受診を促され、すぐさま病院を探した。診察費も薬代も交通費だって全部自腹だ。いつまでも私の中に居座るどす黒い感情を追い出す為の代価として、見合っているのかどうかはわからない。それでも足掻くしかなかった。足掻いた結果、私の足は相談室の臨時の医師が勤めている病院へと向かっていた。そこで初めて、私のこの苦しみの原形がうつ病だと決定づけられたのだ。“心を病んだ私”には、自分に下された〈抑うつ状態〉〈パニック障害〉等の診断もいまいちぴんとこない。ただ、症状に心当たりはあった。主治医の話を父と二人で聞いていたのだが、私の置かれている状況についてへらへらと話を聞く父に
「そんなんだから、今こういう状況になってるんですよ。」
と、主治医が声を荒げた。いつも何を考えているのかわからない父も、表情がしょんぼりしているように見えた。有無を言わせない勢いで入院することが決まり、翌週には地獄のようなあの家から脱出できることになった。これは余談だけれど、こういった時、“あの人”は必ずと言っていいほど来なかった。いつもそうだ。わかってる。だけどこの時の私はまだ、その事実に落ち込むくらいには“あの人”に何かを期待していたようだった。
大学卒業の為だけの入院生活だったけれど、その中で共に同じような苦しみと闘っている仲間と出逢う。特に年が十歳以上も離れている同室のにつきちゃんとは、たくさん話して、笑って、時には泣きながら紅茶を飲んだ。同じ苦しみを持つ人との交流は、私の心に柔らかな燈(あかり)を灯してくれた。そんな人たちとの文句のない日常生活にも慣れてきたその年の暮れ。あの事件が起きる。年末ということもあり、こんな我が家でさえ兄弟たちが帰省し、祖母の家へ新年の挨拶に行くことになっていた。私は外泊申請を出し、大晦日に実家へ帰った。久しぶりに帰っても我が家は我が家だ。帰るなり
「部屋の模様替えをするから早くベッドを動かせ。」
と“あの人”から命じられる。私だって帰ってきたばかりで疲れているのに、“あの人”は自分の計画通り年内に作業を終わらせるように私を急かした。人を見下した相変わらずな態度に腹が立った。納得がいかなかった。頭の中が怒りで煮えたぎった。
「ちょっとやめて欲しいんだけど。」
怒りが表へ出ないように言ったつもりだ。けれどそんな反抗心を見せる私に、“あの人”は感情をストレートにぶつけてくる。
「お前は一体何がしたいんだよ!こっちが色々考えてやってんのに偉そうに。何が気に食わないのか言ってみろ!」
暫く離れて過ごしていたからなのか、この日の私は気が大きくなっていた。今までの怒りを解き放つかのように叫び返した。
「私だってわかんないんだよ!わかんないから病気なんだよ!もうこんな家いたくない!病院に帰る!!」
そう叫び倒して家を出た。怒りからか、言いたいことを言い返してやった達成感からか、心臓は暫く鳴り止まなかった。家を出る間際、父が兄にお金を渡し
「一緒に行って、これで何か食べさせてやってくれ。」
と言った。兄もそれを了承して、無言の私に付き添い、夜ご飯を食べさせて病院まで送ってくれた。病棟へ戻った私を見て少し驚いた様子を見せた人たちも、すぐに何かがあったのだなと察して詳しいことは何も聞かないでくれた。私は部屋に入るとすぐに服を着替え、ベッドへ潜り込んだ。同室のにつきちゃんは帰省していて、病室には私一人。不幸中の幸いだった。全て忘れて眠ってしまおうと、布団の中でいつまでも身体をもぞもぞ唸らせていると、年越しと同時に“あの人”からメールが届く。
明けましておめでとう。
早く元気なじあんに戻って欲しいです。
明日ばーちゃん家に行けそうだったら連絡ください。
待ち合わせ場所で待ってます。
誰のせいで私が病気になったと思ってるんだ。お前のせいだ。そう言ってしまいたくなった。だけどその言葉を言ってしまったら全てが終わってしまうような気もしていた。だからなのか“あの人”から送られてきた弱気な言葉を、受け止められなかった。この日初めて見た“あの人”の縮こまった背中も、届いたメールも、無視することで自分の心を軽くしようとした。一年のイベントの中で私が一番好きな年越しを、こんな形で汚しやがって。ふざけんな。お前さえいなければ私だって生まれなかった。こんな思いしなくて済んだ。全部お前のせいだ!煮えたぎる怒りを、布団に顔を埋めたまま心で繰り返し叫んだ。言葉になって漏れてしまわないように、何度も叫んで薄めようとした。
人生最悪の年末年始をも乗り越えて、入院しながら卒業の為に必死で大学へ通った。同期が卒業していった中、一人寂しく講義を受けなくてはならないのかと肩を落としたものの、友達が一人もいない教室はかえって私にやるべきことと向き合う真剣さを与えてくれた。大学を卒業できたことは今でも、私にだって何かをやりきることができるのだという強みになっている。