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空#86 / “overdo” or “just right”.
今日まで私が生きてきた何月、41年5ヶ月24日。その中で気づいたことは幾つかあるけど、何でも“やり過ぎは良くない”ということについて今日は書いてみたくなった。
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やり過ぎると、本当は何がしたかったのか? 何処に焦点を当てたかったのかがわからなくなる。それは写真のみならず、話し方だったり、人付き合いなどありとあらゆる事に通ずると思っている。相田みつをも言っている。
だけどちょうどいいって言ったって、ただど真ん中を陣取っていればいい訳ではないと私は考える。自分が「こうだ!」と思う考えを持っていたとして、それを押し通すだけでは正しい道は拓けない。反対の意見に耳を傾けて、知っていく事で初めて解決策を見出せる。そして自分が正しいと思っていた方向とも、間違っていると思っていた方向とも似つかない新しい道が見えてくる。
それに気づけたのは、やっぱりトラウマ治療を続けてきたからなんです。私の中の強烈な存在感を放っていた自我状態たちを見つけていくと、必ずその遂になる自我状態が現れて、双方の言い分に耳を傾けてやっと“自分はどうしたかったのか”を知ることができる。そんなワークを積み重ねた私だから自信を持って言えること。
何でも偏った考えは危険。
偏ることが悪いのではなく、それだけに囚われることが良くない。
遂になる考えを知って初めて“ちょうどいい”答えを見つけられる。
そしてその答えは自分の中にしか存在しない。
“なりたい私”になる為に、“ありのままの私”を見失わない為に、みんなに知っていて欲しいこと。人ってブレインストーミングが苦手ですけど、でもまずはそれをやってみて欲しい。それからでも自分の考えはいくらでも育てていける。むしろその方が育つんじゃないかと思う。まずは耳を傾けて、知って、相手のことも自分のことも受け入れてあげて欲しいなって思います。
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↑だいぶ加工しちゃってるけど、15年くらい前に撮った写真。その名も『あせらないで』。真ん中のとこの影がうまい具合に手の形に見えて、当時焦って答えを出そうとしていた私に
『焦らないでね。』
って言ってくれてるみたいだった。そう頑張り過ぎも良くない。頑張り過ぎたなと思った時は休息を🫧