#44 「友達」はいらないが、「仲間」はいっぱい欲しい
(1549字・この記事を読む所要時間:約4分 ※1分あたり400字で計算)
竹子は今、エッセイ執筆「千本ノック」特訓の真っ最中だ。
エッセイのトピックを決めようとランダム単語ガチャを引いたところ、今回は「友達」というワードが出てきた。
ワードが出てきた瞬間、固まった。
そしてひたすら「友達」の二文字を眺めながら、しばらくの間、頭を抱えウンウンと唸ることしか出来なかった。
書きづらい!
このテーマは非常に書きづらい。
なぜなら、私はこの年になってもなお、「友達」とはどういうものなのか分からないままなのだ。
所謂「友達」を私は何人持っているかは知らない。
けれど、「仲間」はたくさんいる。
同じ趣味を通して知り合った者もいれば、職場で意気投合した者、ツイッターの相互フォローから発展してオフでも遊ぶようになった者もいる。
付き合い方も様々だ。
専ら専門的なジャンルについて語る仲や、時折日常をシェアする仲、深い悩み事も打ち明けられる仲や、中には会うたびに面白可笑しくふざけては大笑いするだけの仲もいる。
出会った形、お付き合いの形はそれぞれでも、一人ひとりが私にとってかけがえのない存在であり、大切にしている。
ただ、その一人ひとりを「友達」という関係でひとくくりにまとめられるかというと、ちょっと首を傾げてしまう。
そもそも「友達」の概念自体、実に曖昧なものなのではないか。
「同僚」や「クラスメイト」のように、同じ空間・作業を共にするという条件で分類されるものでもなく、
「親族」のように、遺伝上の距離の近さで定義されるものでもない。
これといった決め手が無いのだ、「友達」というものは。
「仲良く語り合えればそれは友達ではないか」と言われたこともあるが、中には確実に親しい関係性であるものの、「友達」の感覚で接してはいけない相手だっている。
例えば職場の先輩や上司などがそうだ。
どんなに親しくなったとしても、先輩や上司は「友達」にはなれない。
そこまでかしこまった場の仲でなくても、ずっと「友達」だと思っていた知り合いに、「友達じゃないんだからさ」と言われることだってある。
客観的な条件の縛りで決まる関係性ならともかく、「友達」のようなものは主観的な感覚でしか計れない。
そんな個人的に定義した関係性の概念を無理矢理相手にはめ込むと、どうしてもある程度のズレが起こる(「友達じゃないんだからさ」と言われちゃう原因も、まさにこれ)。
人と人との仲というのは、元々一品一様なのだ。
第三者からは分からない絶妙な匙加減で調整している部分もあって、接しつつ感じ取りつつ柔軟に対応しつつで、お互いにとって一番心地よい付き合い方で安定していく。
そこにどーんと「友達」という、主観感覚丸出しの概念を当てはめてしまうと、たちまち今まで保ってきた均衡が崩れてしまう。
多少なりとも「友達であれば、こうであるべき」といった相手への期待が生まれてしまうのだ。
そしてその期待に相手が100%こたえてくれる保証なんてどこにも無いわけで、無意識であるかもしれないが、小さな失望や不満も溜まっていく。
だから、私は「友達」などいらないし、出来れば誰の「友達」にもなりたくない。
でも、「仲間」はいっぱい欲しいのだ。
そして誰かにとって、「仲間」と言える存在に、私はなりたい。
「仲間」はコトバンクでこう定義されているーー
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E9%96%93-588081
何か関わりがあれば、「仲間」。それだけなのだ。
感情の深さだの、距離感覚だの、接し方だのについては、これといった定義は無い。
その人との間にしかない付き合い方で、世界でたった一つの関係性を作り上げていくのだ。
📚自由な関係性は、指定名称になんかに縛られない
↓↓↓🐈たけねこさんの四字熟語エッセイ集はこちらから!↓↓↓
↑今ならKindle Unlimitedで読めます!↑