古代中国のインフレーション
世界的なインフレが進んでいる中に、今日は古代中国のインフレーションの話を紹介します。
まず、インフレーションの定義を見ると一定期間にわたって経済の価格水準が全般的に上昇すると言うことですが、言い換えればお金の価値がなくなると言うことです。
最初のインフレの記録は秦王朝末、これより前の春秋戦国時代にもあったと思われますが、史料が少ないため記録が残されていない。
「史記」に当時「米至石万銭、馬一匹則百金」という記録があり、これは劉邦と項羽が争った時代に商人が物資を貯め込み、物価を高騰させたせいです。
漢王朝の建国者である劉邦も非常に苦しまれ、折角天下を取ったにもかかわらず、物資が何もなく、出かけるとき牛車を乗る羽目となり、インフレを抑制するため、「抑商」という手段を取りました。
「抑商」とは財産税を取ることによって、独占商人を抑え、数年かけてやっと物価を安定化しました。
前漢末、「王莽」が漢王朝を乗っ取り、再びインフレが起きました。
今回の理由は商人と関係なく、主に貨幣制度の混乱によるものです。王莽政権時、六度新しい貨幣を発行し、合計20種類以上の貨幣が存在し、百姓も何を使えばいいか分からない。さらに、王莽は集金するため、色んな高額な貨幣を発行し、市場経済もこれによって破壊されました。
後漢建国後、王莽の貨幣を廃止し、前漢の貨幣に戻したことによって市場が沈静化できました。
後漢末三国時代になると、戦乱による物資不足によってインフレが再び起きました。この時期の特徴は1枚の銅貨を2枚に分けて使う、もしくは銅貨の中に鉄や砂を混ぜるなど。これは当時銅不足による原因です。銅貨の価値は銅そのものなので、材料が少なくなれば価値も自然に減る逆に物価が上昇することになります。
これから政権末になると、大体高額な銅貨発行されるか、材料を減らすかの現象が起きます。
北宋になると、銅貨自体の役目が終わり、紙幣が誕生しました。現在紙幣の発行は必ず同価値の金もしくは外貨が必要です。紙幣誕生の初期宋政府もちゃんと銅貨と交換できるように設計されていました。
しかし、宋政府は紙幣というものの制御がうまくできなかった、北宋末になる大量な紙幣発行することよってスーパーインフレーションが起きてしまいました。
南宋になると、政府は百万両の銀を使って大量な紙幣を買い戻すことによって物価を抑えました。しかし、末になるとやはり紙幣を大量発行することにより混乱が再び起き、紙幣価値も暴落しました。
同じ時期中国北の金王朝もほぼ宋と同じ、初期は銅貨の量によって紙幣発行をコントロールしていましたが、軍事費の増大により大量な紙幣が発行され、しかも中国インフレ歴史の最高記録を残し、王朝滅びた時は初期の物価の約4億倍となりました。
モンゴル人は宋と金を消滅した後、両国の教訓を生かし、紙幣発行は必ず貨幣の備蓄が必要と理解し、2貫紙幣は1両の白銀と交換できるいわゆる銀本位制を導入しました。これによって古代中国の紙幣歴史においてモンゴル元王朝の紙幣は最も価値の安定した紙幣となりました。
しかし、元順帝の宰相が黄河治水失敗により財政赤字を残し、紙幣改革によって問題解決しようとしたが、元々ちゃんとした紙幣がまたまた紙屑となりました。黄河治水失敗による国民の不満を加え、各地が反乱が起き、元王朝の統治も終えました。
明王朝になると、紙幣システムにおいて逆に元王朝より失敗です。貨幣の備蓄もなければ、流通期間の制限も設けられていないし、古い紙幣との交換制度もない。これによって明王朝の紙幣は割と初期段階で紙屑となり、誰も使われなくなりました。
最後の清王朝になると、あまりインフレーションを起きませんでした。分析すると、まず銀本位制を採用され、銅貨は補助貨幣相対的に安定な制度。以前の王朝のインフレもほとんど王朝末による大量な紙幣発行になるものです。清王朝最も大きな問題は貿易黒字による大量な銀の獲得による銀価値の低下。無論他王朝の百倍千倍のインフレと比べれば問題にはならないでしょう。
古代中国のインフレの問題まとめると、政府が財政赤字になると大量なお金を発行することによって問題を転嫁しようとする点にあります。現代世界においてもどのぐらいの違いがあるでしょうか