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昭和10年代の台湾-李香蘭の人気

ところで李香蘭は実は日本人であると云う出所不明の噂で盛り上がった。男によると李香蘭は支那顔に非ず日本人であると云うのだが、自分は諸葛丞相を日本人と信じるのと大差ない噴飯ばなしと思う。それにしても李香蘭は満支の怪女である。どのように取り入り出世したかは皆目判らぬが、膀胱カタルの関東軍の輩は李香蘭に尽とごとく鼻毛を抜かれているのだから凡そ男とは皆助平なのであろう。

(『昭和庚寅(1940)台湾後山之旅』より)

1940年、筆者が宜蘭市内の旅館に泊まっていたとき、こういう噂話で盛り上がったそうです。
李香蘭(山口淑子)とは戦前の中国で活躍した歌手で、一定の年齢以上の日本人は必ず知っているといっていいほどの有名人でした。デビュー当時は中国人とふれこんでいましたが、実は日本人で、戦後はデザイナーのイサム・ノグチと結婚したり(のちに離婚)、自民党の国会議員(田中派に所属)を務めたりしましたが、2014年に94歳で亡くなりました。

李香蘭日本人説

彼女があまりにも日本語が達者だという理由で、当時「李香蘭は日本人である」という噂が当時からちらほらとありました。昭和史の大家・故半藤一利氏の随想にもこの話題が取り上げられていますので、結構論争になったのでしょうか。
なお、軍人嫌いの筆者(この記録には関東軍を指して膀胱カタルの輩と書き捨てています)は李香蘭を中国人だと思っていたようです。それにしても、稀世のスターを怪女と言い捨てるところなど、たとえ日記とはいえかなり面白く思ったりするのですが、それはそれとして、好き・嫌いにかかわりなく李香蘭の歌はあちこちで聞くこととなります。

礁渓温泉の三味線芸者

筆者はこの翌日礁渓温泉に投宿するのですが、三味線芸者を呼んで遊んだときに李香蘭の歌を聞かされます。

人前で唄うのは初めてだと云いながら女は李香蘭の新曲を披露して呉れ、自分はこの後日本に帰ることを話すと、今度はほれほれの替歌を披露せらる。異郷に聞く三味線のなんとも云えぬ哀しさよ。

(『昭和庚寅(1940)台湾後山之旅』より)

文中に出てくる「李香蘭の曲」は、おそらく「蘇州夜曲」のことと思われますが、もしそうだとすれば、このレコードが発売されたのは1940年8月となっていることから、わずか1か月後に礁渓温泉でも歌われたということになります。
なお、後者の「ほれほれ」はハワイの日本人移民の間で歌われていた「ホレホレ節」のことと思われます。ジャスラックのサイトで検索したところ、特に音楽著作権料を払わなくてよいとのことなので(笑)、歌詞を掲載します。

行こかメリケンヨ、帰ろか日本 ここが思案のハワイ国
ハワイハワイとヨ、夢見て来たが 流す涙はきびのなか
横浜出るときゃヨ、涙出てたが 今じゃ子もある孫もある

(『ほれほれ節』の歌詞)

李香蘭の歌や「ホレホレ節」を歌った三味線芸者は沖縄出身でした。この記録には不幸な経歴の沖縄人が何人か出てきますが、改めて紹介したいと思います。しかし彼女ら彼らは戦後は沖縄に戻ってどのような人生を歩んだのか!

3時のあなた

さて、戦前の李香蘭は戦後になってなりを潜めていましたが、1960年代後半に「3時のあなた」というフジテレビ系列の番組でお茶の間に再び登場します。当時の主婦は必ず見ていたというお化け番組であり、もしかすると当時を知る世代であれば「3時のあ~な~た~♪」とメロディで口ずさめるかもしれません。実はわたくしも口ずさむことはできるのですが、内容はほとんど把握していません。唯一覚えているのは、1979年10月の山口百恵が三浦友和の交際宣言したニュースを見た記憶です。

この番組を知る家族によると、「とにかく下世話な番組で、割と見ていた」と言っていますので、自分の記憶は正しいのかもしれません。

金日成も知っていた

ただ、彼女の最大のコンテンツはやはり蘇州夜曲であり、その後彼女は参議院議員となりますが、朝鮮民主主義人民共和国に訪問した彼女は金日成国家主席の前で蘇州夜曲を披露し大変喜ばれたという話があります。

(金日成氏)

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