目も当てられなんだニューアカブーム
このところ周囲がリベラルアーツ、リベラルアーツとかしましい。
おおかたコテンラジオに感化されちょっと頭が良くなった気になってるんじゃなかろうか。
コテンラジオの中の人は生真面目に
「リベラルアーツを学んだほうが良かよ」
「メタ認知を習得しといたほうが良かとよ」
とメッセージを発しているようだ――まあ今後どこかの興行業者とタイアップし商品化するかもしれないけど。
アカデミックの叡智を軽いパッケージ商品にしひと儲け…の流れを眺めると、年寄りはどうしても昔の「ニューアカ」を彷彿してしまう。
新しいアカウントのことではない。ニューアカデミズムと呼ばれ且つて流行った「小難しい言い回しがもて囃されたひと時代」のことだ。1980年代頃の都市近郊で発生した現象である。
ありゃあ、ひどかった。
かつてのニューアカブームについて、当時浮かれはしゃいだユーザーの声は驚くほど現在残っていない。かぶれた頃の黒歴史を封印したいのだろう。
その様を今にちで例えれば「落合陽一だか千葉雅也だかのしゃべくりへ、顎に手を当てうんうん頷くインテリ面チー牛の取り巻き」を想像して貰えればおよそ近い。
読者・聴者の殆どは何を言ってるのか伝わっていなかった。
常人感覚では、痛々しく、正視に耐えない醜態だ。
今では見る影もない西武セゾングループが当時金に物言わせブイブイとカルチャー商品撒き散らし、系列書店チェーン・リブロで『パンツをはいたサル』『チベットのモーツァルト』『構造と力』『逃走論』あたりをプチ知的オサレ本として面出し平積み。時はバブル景気前夜、客がわっと押し寄せた。
「ばんばん買え!どんどん使え!はしゃげ!はしゃげ!」な好景気でお調子ノリな風潮に対し「こんなに踊ってばっかりでいいのかな」と心の隅に少しだけ引っ掛かりを感じていた連中へ刺さったオサレな知的カルチャー商品。
まんまと売りつけられていた。
・文化人類学フィールドワークの雑なあらまし
・適当に読み飛ばしマルクス経済論
・フランス哲学の言葉尻の孫引き
あたりが主なコンテンツ・カタログで、連関性もない人文学を舐めきった内容だった。
その後私は柄谷行人/蓮實重彦/岸田秀/山口昌男らのニューアカ・オールドスクール(古いんだか新しいんだかよく分からない言葉では、ある)に流れてしまい、各位の詳しい顛末を殆ど知らない。
いささか道楽の過ぎる大旦那の堤清二さんはすでに鬼籍に入られ久しいが、ニューアカの旗手各位は多分皆さんまだご存命だろう。
皆さんが虹の橋を渡り切った時分、もう一筆、陰口をしたためよう。
アカデミックの叡智が流行りに乗るたび、痛々しく正視に耐えない「さあ俺様アタクシの知的好奇心を満足させて貰おうか」と上から目線ありありの客層、壇上で衒学趣味丸出しに滔々と語り続け悦に入る幇間学者、それらを持ち上げる山師気質の商売人...らの作り出す茶番舞台に、私は居たたまれなくなる。
今度のリベラルアーツ流行で、またあの居心地の悪い醜悪な知的空間が蔓延しないことを、つとに願う。