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産業医を目指すことになったきっかけ

自己紹介にも少し書きましたが、ある患者さんとの出会いが私を産業医の道に進ませる大きなきっかけになりました。

今回は、その詳細について書かせていただきます。患者さんのプライバシーに配慮しながらなので、患者さんの症状や周りの状況等の詳細は一部改変している部分があります。

その方は結婚して夫婦二人で暮らしていた女性でした。今まで特に病気もしたことがなく、健康に暮らしていたのですが、ある日急に身体の痛みを感じ、力も入りにくくなってしまいました。最初はしばらくしたら治るだろうと様子を見ていたのですが、1週間経ってもなかなか治らないので、近くの病院へ行き、そこでも原因がわからず、私の働いている病院へ紹介となりました。

そして、さまざまな検査を通して分かったのが、とある難病でした。
それから入院日が決まり、私は入院中の主治医として関わらせていただくことになったのです。

膠原病の患者さん

私の臨床の専門は膠原病(こうげんびょう)なのですが、疾患の特徴として、担当するほとんどの疾患は完治せず、さらにその中の多くの疾患が難病に指定されています。

そうすると、治療のゴールは治癒ではなく寛解(かんかい)という状態を目指すことになります。寛解とは、臨床的な症状がほぼない状態のことを指します。もちろん、薬を使わずにこの状態になればいいのですが、ほとんどの場合は何かしらの薬を使いながらこの寛解状態を目指します。そして、寛解になれば、その状態をできるだけ長く維持していくことが最終的なゴールになります。

つまり、一生病気を抱えたまま過ごすことになり、自ずと私たちと患者さんの関係も一生のお付き合いになります。
膠原病は比較的若年で発症するため、20代、30代の患者さんも少なくありませんでした。なので、クラブ活動で優勝した、恋人ができた、結婚した、出産した、親の介護が始まったなど、様々なライフイベントのお話を聞かせていただきました。
時には、パートナーにDVにあってる最中に入院してきた方もおられました。

このように、いろんな方の一生と関わる機会が多いのですが、難病を抱えた人がどのように仕事と向き合っていけばいいのかを考えさせられたのが、この患者さんだったのです。

何とか働き続けたい

この患者さんの話に戻ります。

多くは診断確定後に治療が始まるのですが、この方はなかなか確定診断がつけられず、暫定診断で治療を始めた後に、私たちが診ている難病の中でも、特に治りにくいタイプの疾患だということがわかりました。

診断がつかない状態での不安な時期から、診断がついたもののの効果的な治療法がないことを知った時を経て、さらにはその病気と向き合いながら生活をしていく期間、約3年ほどにはなりますが、関わらせていただきました。

年々症状が悪化していく彼女を見ながら、現代医学では太刀打ちできない無力感を抱いていました。

それでもなんとかより良い治療法はないのか、自分の見逃しがないのか、さまざまな文献を調べたり、研究会に顔を出したりしたりして模索していました。

それでも結局彼女の症状が悪化し続けるのを見守るしかできませんでした。

そんなある外来の日に、彼女から私の思いもよらぬ言葉が出てきました。

「会社の産業医に意見を書いてくれませんか?どういう仕事ならできるのか、主治医の意見がいるそうなんです」

日に日に悪化していっている彼女を診ていた私は、まさか彼女が今も仕事を続けているとは思いもしなかったのです。

治療法のことばかりに意識がいって、病気を抱えた彼女がどう生きていくか、仕事と向き合っていくか、すっかり忘れていた自分をとても反省しました。

そして、彼女のやっている仕事の話を聞かせてもらい、その上でどれくらいの負荷までなら耐えられるか医学的な判断をして主治医に意見を書きました。

明らかに避けた方がいい業務はあるものの、細かいことに関しては、正直なところ、どれくらいの負荷に耐えられるかはやってみなければわからないことがほとんどでした。

そのため、その旨を産業医の先生に伝えた上で、何回も手紙のやり取りをしながら彼女の仕事の調整を行なっていき、職場での配慮もあり、ひとまずは働き続けられました。

恥ずかしながら私はこの時まで産業医という仕事についてほとんど何も知らなかったのですが、この産業医の先生とのやりとりを通して、働く人を支える仕事っていいなぁと思い始めました。

研修医の頃から「みんながもっと生き生き働けたらいいのになぁ」と淡く抱いていた思いが大きくなり、自分も産業医を目指そうと決心したのでした。


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