ディズニー100周年に見る「魔法」の再定義 ―ウィッシュ評―
本稿はネタバレを含みます。
ディズニー作品で魔法と言えば、どのようなものを思い浮かべるだろうか。ピノキオを木の人形から本物の人間に変えたブルー・フェアリーの魔法、アリエルの尾ひれを両足に変え人間として生きることを可能にしたトリトン王の魔法、シンデレラにドレス、かぼちゃの馬車、ガラスの靴を与えたフェアリー・ゴッドマザーの魔法。
多くのディズニー作品では、登場人物の「願い」は魔法によって叶えられ、ハッピーエンドを「与えられて」きた。
公開前の脚本家のインタビューにもあるように、ディズニー100周年記念作品である ウィッシュ は、ディズニーの作品で見られる――露悪的な表現で言えば――本人の努力の方法とは無関係に直接的に願いを叶える魔法、誰かから与えられる魔法に対して一石を投じる作品である。
作品概要
若かりしマグニフィコ王は魔法を修め、妻と共に人々の願いを叶えているうちにそれが国となった。マグニフィコ王は国民の願いを預り、魔法をもってそれを叶える。これは物語の冒頭で語られるロサス王国の歴史であり、本人は願いを叶えるための直接的な行動はしないが、魔法によって願いが叶う、の構図である。
しかしマグニフィコ王は願いを恣意的に選別しており、必ずしも願いを叶えてくれるわけではない。真実を知った主人公アーシャは、ただ待って願いが叶うのをやめようと仲間に訴え、とらわれた願いを解放する。というのがストーリーラインである。
序盤のマグニフィコ王は、願いを持つ本人の意志や努力とは無関係に願いを叶えてくれる魔法使いとして。中盤以降のマグニフィコ王は、願いを破壊するヴィランとして。主人公アーシャは、自分の意志をもって願いを叶えようとする人物として描かれる。魔法の再定義が主題であることは序盤のマグニフィコ王とアーシャの対比で示される。
劇中では、主人公アーシャを含め登場人物それぞれの「願い」が何なのか、
観客に想像させるシーンがいくつも散りばめられているが、一部を除き明確にされることはない。主人公アーシャの願いが何だったのか、マグニフィコ王の願いは何だったのか、という想像の余地や、観客のミスリードを誘う脚本の仕掛けが相まって、SNS等で考察や意見交換が活発になされている。
劇中の「魔法」について
本作では性質が異なる「魔法」が3種類登場する。作中で明示的に分けられることはないが、それぞれ別のものと認識した方が物語のテーマは追い易い。
一つめ、願いを叶える魔法。一般的におとぎ話の魔法としてイメージされるもので、マグニフィコ王、スター、スターから枝状の杖を受け取ったアーシャが行使している。願いを叶えるために、物理法則や時間経過などの過程を無視して結果のみを顕現させる力であり、本稿の冒頭で述べた、基本的には誰かに利を与える善となる魔法である。
二つめ、私利私欲を満たすために使われる魔法。劇中では邪悪な魔法書やマグニフィコが生成した魔法の杖として登場するが、これは魔女をはじめとしたディズニーヴィランが行使する邪悪な魔法として位置づけられている。
三つめ、願いを叶えるため自らが行動する意志。本作でディズニーから示され旧来の魔法と比較される「新しい魔法」である。
登場人物の願いはほとんどが叶えられていない
ほとんどの登場人物は、願いが叶えられていない、途上の状態でエンディングを迎える。しかしこれは、本作のテーマにそった順当な結末である。
本人の意志や努力を飛ばして他人に願いをあっさり叶えてもらうのではなく、自分の願いを自分の意志で少しずつ前進させようという意思が、本作における魔法のパラダイムシフトであるから、ストーリーの展開で願いを叶えてもらった数人を除き、あっさり叶う願いなど存在しない。基本的に作中の登場人物の願いは、作品のテーマに沿って順当に、これから頑張って叶えよう、という状態で結末を迎える。
スターは誰の願いも叶えていない
スターは、アーシャが困り果てて空を見上げた際に突然降ってくる。まさにディズニー歴代作品における、魔法使いのおばあさんのような登場である。
しかしスターは「魔法で願いを叶えてあげるよ」みたいな顔をしているにも関わらず、実は人の願いを直接的に叶える魔法を作中で一度も使っていない。スターは魔法のメタファーであるが、願いを叶えてくれる魔法使いのおばあさんとは本質的に異なる役割が与えられている。アーシャが夜空を見上げて「星に願いを」訴えてみても、魔法で願いを叶えてくれないのである。
スターの魔法はあくまで誰かの行為を後押しするものに限られている。動物が人語を話すようになったり、手漕ぎ舟のオールを無から出したり、マグニフィコ王の部屋のドアを開けたりといった、超自然的な力で手助けや後押しはしてくれるが、直接的に願いを叶える行動はしてくれない。
他人の願いを後押しする際に超自然的な力を行使できるものの、直接的に他人の願いを叶えることはない。
魔法は他人のためにしか使えない
作中で登場する、アーシャやマグニフィコ王が使う願いを叶える魔法は万能ではなく、ある制約があるように見受けられる。
アーシャはマグニフィコ王(※)から逃れるためにスターからもらった枝状の魔法の杖を使うが、その魔法はほとんどが失敗している。マグニフィコ王から隠れるためにとりあえずで放った魔法は自分を遮蔽する草木をどけてしまうし、マグニフィコ王の追撃を妨害するために放った魔法は大木をドレスを着せる結果になったりしている。
なぜアーシャの魔法はほとんど失敗していたのか。アーシャが魔法を失敗するとき、その魔法は他人のために使用されていない。アーシャの魔法で成功していたのは、例えば、マグニフィコ王から逃亡するシーンで使用した、台車に足を生やして鹿を避けるための魔法である。自身の逃亡のために使った魔法はことごとく失敗しているが、無意識のまま咄嗟に放った魔法は、鹿の命を助けるための魔法だったので成功という結果になったのではないだろうか。
逆にマグニフィコ王の魔法は、ドレス職人やサイモンの叙任においても失敗がない。熟練の魔法使いである王の力量とも考えられるが、魔法の制約を理解していたと考えた方が自然で辻褄も合っている。
そもそも、マグニフィコ王が魔法で自分の願いを叶えられるのであれば、自分に降りかかる全ての問題は魔法で解決すればいいのである。だが実際にはそうしておらず、魔法を使ってアーシャを追い詰めていくのは、邪悪な魔法書や魔法の杖を使い始めてからである。これはヴィランの魔法であり本質的に願いを叶える魔法とは異なる。マグニフィコ王は犯人捜しやアーシャらの捜索に願いを叶える魔法を使うことはなく、物理的な暴力や邪悪な魔法で解決しようとしている。(※)
これらの展開は、魔法には他人や国民の願いを叶えることはできても自分の願いを叶えることはできない、という制約があることの傍証となるのではないだろうか。
この制約は、アーシャの願いは何かという、作中最大の仕掛けにつながる。
※ アーシャを森で追跡していたマグニフィコ王は特殊な状況にあり魔法を使えない理由がある。それは劇中で明確である。
マグニフィコ王の願いは?
王の願いは「愛する国民から慕われる王となりたい」であろう。
だが、その願いを王の魔法で叶えることはできない。上で述べた、魔法では自分の願いを叶えることはできない、といった制約があるという想定が正しければ、魔法の制約のもと、魔法使いであるマグニフィコ王に救済が無いのがウィッシュの世界である。
他者を利する強者男性にも当然、苦悩や願望はある。強い人間だって救われてもいいんだよ、という方向はディズニーでは革新的な試みだが、それ以上に、脚本に整合性を持たせるため、マグニフィコ王も救われなければならない必然性があった(後述)。
最終版、マグニフィコ王は自分の過ちを後悔し、国の復旧と再生を誓う。国民から元気づけられるマグニフィコ王に寄り添うアマヤ王妃。アマヤ王妃は「国民から慕われる王と王妃になりたい」のような願いを持っていたのかも知れない。
アーシャの願いは?
アーシャの願いは「みんなの願いが叶うこと」すなわち「願いのメタ」であろう。
アーシャ本人の主観に過ぎないが、"私の願いは絶対に他人を傷つけるものではないわ"と友人に語っている。
序盤の面接の前、アーシャは自身のアピールに悩む凡人として描かれており、親友から"優しすぎること"を長所とするよう提案される。これは視聴者にアーシャを凡人と印象付けるためのミスリードと思われる。アーシャは指名手配され国民全員を敵に回しても、みんなの願いを取り戻そうとする、まさに優しすぎる超人である。
強者男性であるマグニフィコ王――つまりは他人の願いを魔法で叶える(実利としては)優しい人――の願いを救い上げるのは、強者男性をはるかに超えた、凡夫ではない、菩薩のような「優しすぎる人」であり、みんなの願いを叶えるという例外なしの徹底した他者救済の願いを持っていなければならない。
そして、魔法の再定義を担う物語の主人公としては、過程を無視して、すなわち縁起から外れて直接的に願いを叶えられる「願いを叶える魔法」だけではなく、願いに向かって前進する意志である「新しい魔法」を行使する者でなければならない。
劇中の最期のシーン、親友であるダリアがアーシャに問いかける。 "アーシャ、あなたの願いは何なの?" アーシャはダリアに微笑み、ロサス王国の広場と人々を見る俯瞰で物語は幕を閉じる。これはアーシャの願いが「みんなの願いが叶うこと」であることを暗に示していると考えられないだろうか。
なぜ国民は全員で願いを取り返すのか
マグニフィコ王は邪悪な魔法の書と邪悪な杖に心を奪われ、人々の願いを破壊し、その力を吸収して強大な力を手に入れる。母の願いを破壊され悲しむアーシャに、王は追い打ちをかけるように言い放つ。"壊された願いは二度と戻らない"
王の言葉が真実であるならば、ウィッシュの世界の願いは、破壊されたら二度と修復されない。しかし物語の終盤では、王に破壊され吸収された人々の願いは、アーシャと国民の願いによって再生する。これはなぜか。
クライマックスで、国民全ての願いは王宮に潜んでいた王の手に渡り、邪悪な力ですべての国民は身動きを封じられてしまう。王と対峙するアーシャとスター。アーシャの呼びかけにより、マグニフィコ王に願いを預けて叶うのをただ待っていた国民は、自分の願いを取り戻すために立ち上がる。
アーシャと国民が自分たちの願いを取り返すために自身で立ち上がる姿は、本作のテーマである新しい魔法と符合する。国民が自分たちの願いを取り戻すためには、アーシャだけが魔法使いとして王から願いを取り戻す「願いを叶える魔法」の構造ではダメで、国民が自分たちで意志を持って、願いを叶える魔法使いであるマグニフィコ王に立ち向かう必要がある。
アーシャの「みんなの願いを叶える」願いは、純粋に他人のための願いである。枝状の杖から発せられる魔法は、他人のために使用する際に成功し超自然的な力を発揮する。
スターの役割は願いに向き合い進む人を後押しすることである。スターは直接的に他人の願いを叶えることをしないが、後押しをする際には、物理法則などの過程を無視して結果のみを顕現させる超自然的な力を行使できる。
だから、アーシャの枝状の杖から放たれた魔法は、ウィッシュの世界における"壊された願いは二度と戻らない"というルールに縛られずに願いを叶える後押し――すなわち、破壊された願いの再生をなし得るのである。
以上が、アーシャとスターが、破壊された願いを再生し奪還する際に起こした奇跡の仕組みであり、ディズニーが新しい魔法の概念を提示するために、
クライマックスに向け願いや魔法の伏線を張り巡らせて用意していた最大の仕掛けである。
願いの成就は他人から与えてもらうだけではない、後押しする力もあるし、自分の意志で進めることができる。これこそ、ディズニーが魔法のパラダイムシフトとして、本作で訴えていた事ではないだろうか。
「願い」におけるメタ的な仕掛けであっと驚かせたうえで、自分の願いを取り返した国民はおろか、強者男性として描かれるマグニフィコ王に対しても等しく苦悩と救済を描き切った愛情ある物語の展開。鑑賞後の満足感は過去のディズニー作品一と言っても過言ではない。ここ10年近くディズニーにはポリコレ批判が続いていたが、それを乗り切った作品として充分すぎるほどの映画であった。
というのは嘘。
半分近くは私の創作である。そんな驚きの展開や伏線を盛ったシーンはない。ダリアはそんなこと言わない。マグニフィコ王はそんなこと言わない。
願いは破壊されても、王を倒せば普通に元の人に戻る。
が、鑑賞中は本気で、本作の結末はこのような願いのメタを利用したオチしかないと予想していた。単純な勧善懲悪の結末になるとは思ってもいなかった...。
アーシャの願いは「フェアリーゴッドマザーのように魔法を使いたい」だった。紫色のローブを着ていることが伏線になっているのだが、ラストであっさり言う。魔法で国中を巻き込んだ散々な目に合ったばかりなのに、魔法を使いたいって正気か。第二のマグニフィコ王になってしまわんのか。
マグニフィコ王の願いが何だったのかは一切描かれない。最序盤は強者男性として登場し、話が進み雲行きが怪しくなるにつれて一方通行でヴィランの道を進んでいく。邪悪な魔法書に心を支配されるという事もなく、王の素の人格がそもそも傲慢で、諸悪の根源だったことになっている。反省の弁を述べるという事も最後までしない。
マグニフィコ王が人々の願いを魔法で叶えることで建国に至ったという過去は、中盤以降は一切触れられない。魔法で願いを叶えてもらった人が集まって現在のロサス王国が成り立ったのであれば、少なくとも当時は人々に慕われていたはずなのだが、道を踏み外した王に救済はない。無慈悲。事件が収束した後は、建国当初の付き合いである妻からさえも見捨てられているのである。
そして、その建国当初からの付き合いであるアマヤ王妃は、アーシャの仲間から「女王陛下!」と呼ばれていたことから、マグニフィコ王に代わり首長として国を治める立場になるようだ。なんで?「王の妻」だったから? それはむしろポリコレ的にはアウトなのでは?
国民のリーダーとしてマグニフィコ王の悪事を止める際に活躍したのであれば流れとして理解はできる。だがアーシャや仲間の視点からのアマヤ王妃の活躍は、逃亡するアーシャの場所をマグニフィコ王にあえて伝え、人々の願いから遠ざけたといったあたりで、嘘を言う演技力も必要なく、本当にアーシャのいる場所を王に伝えるだけである。しかも(彼女の失点とは言い難いものの)、結果的には失敗していた。彼女を女王に据えることに脚本上どんな意味があったのか謎。
とはいえ、分かり易いのは逆に良い点であるとも言えます。
説教臭い暗喩、人物の複雑な深堀り、過去作品からの革新性はない。
勝手に展開を予想して肩透かしを食ってしまったが、決してつまらない映画ではない。映像美と演出は素晴らしく盛り上がりどころでちゃんと盛り上がれるし、ミュージカル部分も楽しめます。勧善懲悪もののエンタメとして楽しめる映画だと思います。