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今思う、"悟る"ということ

いつもお読みいただき、ありがとうございます🙏✨
タカミチです。

古舘伊知郎さんと松波龍源さんという真言宗の僧侶の方の対談が面白かったので、テーマである"悟る"ということについて、今感じることをサラっと書いてみたいと思います。

時間があれば突っ込んで書きたいテーマですが、「ジャンプ次世代バトル漫画賞」用のシナリオ作成とキャラデザ等で時間が無いので30分程度で要点だけ書きます。

また時間がある時にじっくりと書くかも知れません。

松波龍源さんは、工場跡地に建てた実験寺院・寳幢寺の僧院長をされているそうで、ざっくり言えば「お釈迦様が作った衆生救済システム」を現代で実現したいとおっしゃっています。

お二方もおっしゃってますが、大前提として"悟る"ということは言語化出来ませんが、それだと伝達が出来ないので、出来得る限り言語化をして伝えて来たのが仏教の教義のようです。

僕は少し前から近代インドの聖者で、真我覚醒を成し遂げたラマナ・マハルシの著書や、同じくインドのグルで真理について教えているニサルガダッタ・マハラジに関する著書を読んでいます。

どちらも共通しているのは、やはり「真理(真我覚醒)は言語化できない」ということで、"悟り"と同様です。

この"悟り"と"真我覚醒"は同じ意味で捉えられがちですが、ラマナの教えからすると同義ではないと感じます。

誤解が含まれる可能性もありますが、一般的解釈を客観視して敢えて言えば

  • "悟り"とは、人生の苦を克服するための教え

  • "真我覚醒"とは、自我を離れて真我に気づくこと

真我覚醒を達成すると、同時に悟っている(解脱している)ため、一般的には同義に扱われることが多いのだと感じます。

しかし、ラマナの著書から分かりますが、真我覚醒をして真理を知っている者の話は、明らかに次元が違います。

この次元が何なのか、ということが直感的に分かるだけでも、真我に少し気づき始めていると言えるかもしれません。

真我に意識を向けるほどに、やはり言語の不要性に気づき始めるわけですが、それだとやはり説明できないので、出来得る限りの言語で表現するわけですね笑

松波龍源さんが大日如来の話をされていますが、聴いていて仏眼仏母こそが真我ではないかな、と感じました。

いや、大日如来と仏眼仏母は鏡映しであり、神であり真我であり、2つであり1つであることを表現した存在だと感じました。

でもこれはラマナの言うところの、自我の視点での2元的考え方であり、真我においてはこれが撤廃されるため、"ただ在る"状態になるわけです。

この"ただ在る"状態こそ、自我で神と定義する宇宙根源のエネルギー・愛そのものだと感じます。

説明のために愛と定義しているだけで、真我とは自我で思考して分かる存在ではないようです。

"ただ在る"ということを直感で気づいた時、真我覚醒は達成されているとラマナは説明しています。

"ただ在る"、、、これを方法論で説明するなら、”私とは誰か?”と常に考えながら、今この瞬間を精一杯やれることを感謝してやるということなのでしょうね。

ラマナは"気づき"こそが重要だとします。

僕たちが「あっ、そうか!」と人生の新たな気づきを得ることは、想像以上にとてつもないことのようです。

まぁ、真我覚醒はおいておいて、自分のため、人の為になる"気づき"こそが人生で最重要と考えて生きて行きたいですね!

あー、時間切れです笑

このテーマはじっくり書かないと誤解しか生まないかも知れませんね😅

またいずれということで。。。


あなたの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。。
明日も善い一日となりますように😊

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