ショートショート『男の放浪、あるいは夢について』
保育所という共同体に人生を据える弟は、毎夜就寝前に私に創作物語のを語ってくれる。
しかもそれは、全てを俯瞰する語り手の時もあれば、ある時は西洋の喜劇に登場するようなバカな男、またある時は家を失った女の子など、様々な視点で展開される物語であるがゆえに、私は毎夜聞き入り、時に微笑み、時に悲しみ、時にはよく感心させられ、充実した入眠へと誘われるのだ。
ある夜、この日弟が語ってくれた物語はもうすぐ成人を迎える私の心に深く楔を打ち込み、将来に危機感を覚えさせる非常に重要なテーマを孕んだ作品であった。
私はその物語を、私の読者に向けて伝えたいと思い立ち、今一度教えてほしいと弟に頼み込んだ。弟は私ではなくあなたのような読者に向けた口調で語り始めた。
これはその時弟が発した言葉を、一切の過失修正を加えずに書き写したものである。
『男の放浪、あるいは夢について』 語:N弟
この世に生を授かり、幾秒、幾日、幾年。魂に刻まれし宿命をも凌駕しうる、胸のうちに秘めたる夢や如何に。
諸君の困惑は十分に承知している。ただ、ここは一旦聞いてほしい。紹介の通り、私はNの弟である。今日私は諸君に一つ物語を紹介したい。なんてことはない、一人の年長さんが造ったほんの一幕である。
とある村に、怠慢で何事にも不真面目な男がいた。村民からは煙たがられ、村の長もこの男に手を焼いていたのであった。ところで、この村では、皆が寝静まった頃、夢の中におぞましい容貌の化け物が現れるのであった。その夢を見た者は、不安と恐怖に包まれながら目を覚ますのだという。
ある日、村長がその夢を見ることとなった。化け物は言う。「我はソナタの村の西の山に住まう神なり。我は日頃ソナタの村の民の夢を喰らい、我自身の夢を見せている。我の夢喰いを止めるべくは、満月の夜、山の祠に女の生贄を捧げることなり」と。
生け贄は次の満月の夜から、一人、また一人と山の神の元へ送り出されていった。その数は既に10人に達しようとしていた。
村長はこれ以上生贄の女を増やしてはならぬと、山の神を説得するよう、村民に投げかけた。村民は一斉に怠け者の男を指名した。村民にとっては単なる厄介払いであったのだが、当の男は悪い気がしていなかった。
男は不真面目な自分に、少なからず罪悪感を覚えていた。かかる事態がどうであれ、自分は他人から必要とされていると喜んだ男は、その喜びが冷めぬまま、満月の夜、山へと足を運んだ。
祠には山の神がいた。山の神は言う。「貴様は誰だ。なぜ生贄が一人もおらぬのだ」
男は屈せず言う。「山の神よ。ソナタともあろうお方が、なぜ生贄のようなくだらぬことを望むのか」
神、これに答えて言う。「人間の男よ、我に生贄を取ることをやめさせたくば、生贄と同等のものを献上するのだ」
男はこのとき、神が何を要求しようともそれを献上し、村の民を救おうと考えた。これが初めて男に芽生えた正義であった。男もそのことを良く実感し、山の神の要求に身構えていた。
山の神は言う。
「我は貴様の村の民の夢を喰らい、これまでの数万年という時を生きてきた。しかし、もうその味に飽きてしまったのだ。我は、人間の内に存在せし“もう一つの夢”とやらを喰わんと欲す。
その夢は人間の一生を左右させ、叶わばその人間に生きた価値を与える崇高な存在であるという。また、他の人間が決して捻じ曲げることのできぬ、強固な意志と大望がその夢を心の内に宿らせるという。我はそれを喰いたいのだ。
人間よ、今ソナタに問おう。この世に生を授かり幾秒、幾日、幾年。魂に刻まれし宿命をも凌駕しうる、胸のうちに秘めたる夢や如何に」
男は黙りこくり、うなだれるばかりであったーーー。
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