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短編小説『温泉地獄』

 友義(ともよし)君は銭湯の入り口が見えてきたところで、大人の男性が一人、自動扉から中に入っていく姿を確認して足を止めました。

 これはある一人の男子高校生による、たった数十分の葛藤を描いた物語です。


 俺の所属するバスケ部の練習は、この時期になると厳しさを極める。

 指導方法が古いおじいちゃん監督が、無限に続くんじゃないかという気になるような長時間のランニングを宣告してくるのだ。耳から入ってくる「寒ければ動け~!」という汚い声が肺で空気と混ざり合い、体全体に供給されることによって、俺たちの体力は普通に走るよりも速いスピードで消耗される。

 俺は体に溜まった疲労とじじいの毒を体から洗い流すため、近所の風呂屋へ足を運んだ。先輩も、「疲れたなら、風呂入って飯食って寝るのが一番いい」と言っていた。まあそんなことは誰でも言えるのだが。
 とにかく俺は家に帰ってくると、部活で使ったものと風呂の用意を一瞬で詰め替え、地域に住んでる人に毎月配布される無料券を握りしめ、汗だくのまま風呂屋へと向かった。

 自転車で5分ほど走ったら、遠くに風呂屋が見えてきた。休日だが、まだ昼間ということもあってか、車の出入りは少ない。

 駐輪場から歩き出した俺は、まだ先にある入り口に、知っている人の姿を見た気がした。想像力が及ばなかった俺はとくにそのことを問題とせず、再び歩き始めた。

 入口を通って受付を済ませ、男湯の暖簾(のれん)をくぐると、心地よい湯気と共に独特の風呂屋の香りが鼻をくすぐった。今日の脱衣所はやはり静かで、客は、何人かの老人がベンチで休んでいる程度だった。
 この中にもあの監督のような人がいるのだろうと思うと、少し嫌気がさしてくる。

 服を脱いでロッカーに鍵をかけたところで、俺は浴室の方を見た。
 ガラス扉越しの洗い場に、一人の中年の男が座っているのが見えた。俺の記憶の一部が掘り返され、その男が誰だったかはっきりとわかった。

 嘘、だろ………。なんであんな人が。それも、なんでこんな時に………。

 もう会わないと思っていた。というかなんとも思っていなかった。

 あれは…タカシの父親だ。


 洗い場に座っていた男性は、友義君が言うように、タカシ君という子のお父様でした。
 友義君とタカシ君のお父様との関係をご説明しましょう。少々複雑にはなりますが、きっとご理解いただけるはずです。

 友義君は、まだ小学生だった頃から、ミニバスケットボールクラブに入っていました。タカシ君はその時同じ学年のメンバーの子でした。ただ、友義君とは学校も違えば、クラブに入った時期も違います。
 タカシ君のお父様はクラブの送り迎えの時に、体育館にやってきました。偶然まだ練習が続いていた時には、友義君に「いいプレーだったね」などと、声をかけることもありました。

 では、そのことを踏まえたうえで、友義君の立場で今回の状況を整理してみましょう。
 友義君が見つけた男性は、「小学校の頃に入っていたスポーツクラブの、あまり親しくなかったメンバーのあまり親しくなかった父親」です。

 これは面倒なことになりそうですね。


 タカシの父親なんて、もうほとんど他人みたいなもんじゃないか。
 今日姿を見なかったのなら、俺が死んだとき、タカシの父親に走馬灯出演のオファーがかかることは決してなかっただろう。もう主演俳優兼監督のじじいはスタンバイを完了させているのだから。
 
 関わらなければいいんだ。関わらなければ。

 俺はかけ湯を早々に済ませ、洗い場からできるだけ遠い、隅っこにある小さな風呂に体を沈めた。湯の温かさに包まれながら、一旦瞼を閉じる。湯の音、遠くで話す人々の声、その中に混ざる自分の心拍。全てが耳に響いてくる。

 さて、この風呂屋からどうやって抜け出すか考えよう。

 俺はどちらかというとゆっくりと湯船に浸かっていたい方だし、今日は髭も剃ってから帰りたい。だからここにいる間は、いかにして関わりを持たないかが大切になってくる。

 最も注意すべきこと、それは視線を向けないことだ。人間、自分に向いている意識なんて簡単に読み取れてしまう。そのほとんどは視線から悟られる。ドリブルのフェイントも、相手の目を見ていればたまに見抜けたりするんだ。
 そして、あまり一つの場所に留まりすぎないことだ。いくらこっちが気づかないふりをしていても、向こうが自分に気づいてしまっては意味がない。厄介なことになる前に、早くこの考え事もやめて次々と場所を移ら………

「あれ?ひょっとして、尾崎(おざき)くん?尾崎君だよね!ほら、やっぱりそうだよ!俺のこと誰だか、覚えてるかい?」

 ………ないからこんなことになってしまった。本当に最悪だ。

「あっ…はい。タカシの…お父さん……ですよね…」
「そうだよ!覚えててくれたかい。いやー、本当に大きくなったよね!」
「そ、そうっすねー」
「いやさあ、ほら、さっき尾崎君が脱衣所から入ってくるときにさあ、鏡に映った人になーんか見覚えあるなーって思ってさあ。探してみたらまさかの尾崎君でびっくりしたよ」
「…へえー!そうだったんですねー…」

 どうやらこの風呂屋に来た時点で最悪が確定されていたらしい。相手から最初に目をつけられていたようじゃ、俺が何をしようとも話しかけられる運命だったのだ。
 ………いや、ちょっと待てよ。今日は部活も最悪だった………………。
 ああ、何ということだ。俺は今日の朝、目を覚ましたときから、最悪を積み重ねていく1日が確定していたんだ。きっとこれから寝るまでも、何度も最悪なことが起き続けていくんだろう。

 今日は最初から詰んでいたのだ。今日は最悪を積んでいるのだ。


 可哀そうですね。
 ですが、これは仕方ないことです。人間、生きていれば誰しも最悪なことが立て続けに起こることはあります。これは皆さんも例外ではありません。何とか応援してあげましょう。
 頑張れ、友義くん!いや、頑張れ、尾崎くん!


 どこからか、俺をバカにするような声まで聞こえてくるような気がした。
 
 タカシの父親はじゃぶじゃぶと湯船に入ってきて、俺から2メートルほど離れたところで肩まで浸かった。同時に見たくもない顔がゆっくりと俺の視線までリフトオフしてきた。
 喋り出す雰囲気が完全に整ってしまった。

「いやあ、すごかったもんねえ尾崎君。ほら、ミニバスのとき。シュートばんばん入れてたもんなあ。いつも練習の後でさあ、タカシも尾崎君みたいに、もっと自分でゴールまで行きなさいって言ってたぐらいだよ。ははは。」
「ああ、そうなんですね…」
「今はどこの高校通ってるんだい?」
「×立○○高校ってところです」
「ええー!尾崎君、頭もいいんだねー!」
「ええ、ああ、ありがとうございます…」
「へええ、あっ、そうだったんだあ、すごいねえ…」

 俺は今すぐ走り出して、どこかに身を隠したくなるような気分に襲われた。
 だが手遅れだ。なぜならこの身を守ってくれる服は、俺が自ら脱ぎ去って、ロッカーの中に丁寧にしまってあるからだ。俺は自分から、文字通りの丸腰の状態になることを選んだんだ。つくづく、詰んでいる。

 俺とタカシの父親の間にはこの湯よりも透明な、しかしとてつもなく厚い壁が、確かに存在している。
 普段熱いとすら感じるこのお湯が、俺の体全体を包んでいるというのに、会話が途切れた無言の時間で芯から冷えていくように感じる。恥ずかしさとやるせなさに少しの怒りが混じったような、とても耐えられない複雑な気持ちが俺の中で渦巻いていた。


 一般的にはこれを「気まずい」といいます。


 ここは地獄だ。
 会いたくもない人間と一緒にされ、ただ時間だけが過ぎていく。感情がぐちゃぐちゃになって冷えていく俺を、熱湯がぐつぐつと煮込む。生かさず殺さずの『温泉地獄』だ。

「尾崎君、まだバスケは続けているのかい?」
「はい、まあ、一応…」
「そうだよなあ。だってうまかったんだもん、やめちゃったら勿体ないよねえ」
「そうですねえ………」

 俺は会話の最中、この地獄を切り抜ける方法を探していた。いくつものパターンを想定し、そのなかから、最適なタイミングで最適な動きをしないといけない。そう思っていた。

「どうやって続けてるんだい?やっぱり部活かな?」
「はい、そうです」

 俺はついに答えを見つけた。とてもシンプルな答えだった。

「そうかあ。………。ん?尾崎君○○高校通ってるって言ってたよねえ」
「………」
「○○高校っていえば、ほら、あの——―
「ちょっと、すみません」
「…お?どうしたんだい?」
「ちょっとのぼせそうなので、もう出てもいいですか?」
「お、おう。ごめんな。長いこと話しちゃって。ちょっと話し相手になってほしかっただけなんだ。ああそうだ、尾崎君、部活頑張れよ」
「はい。すいません、失礼します」

 俺の答え、それは単純な嘘だった。本当はもっと風呂を楽しみたかった。

 俺は年長の者と公の場で交流するときに求められる、丁寧さとか社交性とかいうものをかなぐり捨て、脱衣所にやってきた。

 最後にタカシの父親が応援のメッセージをくれたとき、俺は既にその言葉に背を向け、湯船の水面に波を立てながら歩き始めていた。

 まるで毒矢のように、「頑張れよ」という言葉が背中に突き刺さり、罪悪感が風呂上がりの体を蝕んでいった。


 皆さん、いかがでしたか?救いようがなくて残念ですよね。

 今回のお話のようなことは、現代社会でも頻繁に起こっています。人間関係って難しいものですね。まあ今回の友義君のような例では、先輩が言うように、寝て一日経過すればもう回復してるなんてことが多いでしょう。

 もう一つ、皆さんにお伝えしたいことは、「会話の最中に気まずいと思っているのは自分だけではない」ということです。
 自分と同じように、最初から会話において社交辞令を守っているときもあれば、自分の不安が相手にも伝播し、全体として気まずい雰囲気が流れることもあります。
 今回はどうだったのでしょうか。


「お疲れ様です」
「ええ、ええ、お疲れ様」
「やっぱりこの店が一番落ち着きますね」
「そうだねえ。なんというか、やっと一休みって感じがするねえ」
「そうですねえ」

「あっ、そういえばこの前、ちょっと一休みと思って近くの銭湯にいったんですよ」
「お!いいなあ。俺いつから行ってないんだろうなあ」
「そこで尾崎君って子と会ったんですよ。知ってますか?」
「おお、尾崎か!もちろん知ってるとも、うちの部員じゃないか!君の方はどうして知っているんだい?」
「いやあ、実はうちの息子がまだ小学生だった時にミニバスに通わせてまして。そのとき尾崎君も同じチームメイトだったんですよ」
「へええ、そうかあ」
「はい、そうなんですよ」
「尾崎とはどんなことを話したんだ?」
「いやあ、それがですねえ…」
「おん?どうしたんだい」
「僕、尾崎君とは当時あんまり面識がなくってですねえ。話すにも気まずくって、全然会話が弾まなかったんですよねえ。尾崎君の方も、僕のことを覚えていたかわからないくらい、気まずそうにしていましたから」
「お前、そんな風呂で気持ちよくなれたのかよ」
「いやあ、全くですよ。別れる時も、尾崎君の方が急に僕の話をさえぎって、早々に風呂から出ていきましたから」
「なにい?尾崎がそんなことをしたのか」
「ええ、まあ、そうですねえ」
「これは、いかんなあ!今度の部活はあいつだけ、いや、連帯責任でメンバー全員でランニングメニューだなあ!」
「ちょっと、やめてあげてくださいよお。あれは尾崎君は悪くないんですから」
「いいや、俺は一度決めたら曲げない人間だ!へとへとになるまで走らせ続けてやる!」
「もお、相変わらずですね」
「さあ、こんな話は終わりだ!ここまで来るのにずいぶんと冷えただろ。今日はとことん飲んで温まるんだ!君も、寒ければ飲め~!」
「はい、そうですね!」
「「乾杯!!」」


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