「心と身体の調和と創造性を探求するシアターワーク」アーティスト 小木戸利光さん 後編
前編より続く
●どのようにシアターワークを生み出してきたのか?
三木:僕はZen2.0というイベントをやってまして今年2020年で4年目になります。
実は、その中でも色んな葛藤があって、集客とか資金とかあとは100名近くのボランティアの方と一緒にやっていく。表面上はうまくいってるように見えるけど色々なコンフリクトの中で、最後までうまくいけたって感じたのはみんなで時々集まって一緒に対話したりとか瞑想したりとかそういう共通の時間を過ごす、論理立てて「こういう体制でいきましょう」とかではなくて、まさに場を共有していることが一番の強みだったんです。だから先ほど小木戸さんがおっしゃった同じ場所でっていうのがチームビルディングという意味ではすごい価値があると思って話を聞いてたんですけど、小木戸さんがどういう葛藤があってシアターワークを生み出してきたのかっていうちょっと内面的なところに入りますけども。
小木戸:僕はよく講演などで、自分の幼少期とか10代の頃のエピソードをお話ししていますが、僕は幼い頃、心と身体の不調和におおいに苦しんでいました。たとえば、僕の幼少期や十代についてですが、たとえば、自分と両親とは肉親と言えども、見ている世界、感じている世界が、大きく異なっていたようでした。両親が良かれと思って、「普通は、こういう風にするものなのよ」と僕に教えようとしていたことは、ほとんど僕にはよく当てはまりませんでした。「普通」というのが、僕には全然当てはまらなくて、自分が自分でいられる場所、自分の気持ちを伝えられる人がおらず、自分の気持ちを自分が感じているままに認めてあげることができなかったのだと思います。「普通」というものにうまく当てはまらず、なにか後ろめたいような気持ちや劣等感のようなものがあり、胸のなかのあらゆる気持ちを、ありのままの自分自身を認めてあげることができなかったのです。その結果、ものすごい心と身体に不調がありまして。
三木:何歳ぐらいの時ですか?
小木戸:15、16、17歳くらいの時が、かなりひどくて、もう本当に普通の暮らしをすることが難しかったです。たとえば、ドアを開けて、あちら側に行こうとしますよね。
すると、その自分のドアの開け方がわるかった気がして、もう1回ドアを閉めて最初からやり直さなくてはならない。そんな強迫観念におそわれるのです。何か良いイメージでドアを開けないと先に進めない感覚がありました。ドアをうまく開けられてやっとの思いでドアを通過しようとすると、今度はそこの区切りのまたぎ方がわるいような気がして、もう1回最初の地点に戻って、グルグルグルグル同じところを行ったり来たり。前に進むことができずにいました。塾の帰りには、自転車で帰っていて、帰り道の途中のある桜の木のまわりを何回もグルグル回っていないといけないような気がしてきて、ずっとその桜のまわりを回っていたりとか、そのうち壁や木に頭をゴンゴンってぶつけていないといけないような気がしてきて、ずっと頭をゴンゴンゴンゴンってやっていたり。ある時は、道端で地面に触れ続けていないとすごくわるいことが起こるんじゃないかと強迫観念におそわれる。ご飯を食べるにも、母親が食卓にご飯を運んできてくれた時の、そのご飯の登場の仕方がわるい気がして、「ごめん、もう1回ご飯を出し直しほしい」と頼まずにはいられず、もう1回やってもらったり。目の前のご飯を食べちゃいけないんじゃないかと思ったり。僕自身に自分が変なことをしているという意識がありましたから、何度も母に同じことを言うのも頼むのも気が引けて、何とかそのご飯を無理やり食べようとするのですが、うまく飲み込めないとか、そういうことがいっぱいあったのです。
三木:すごいですね。
小木戸:高校受験の時に、今でも覚えてるのは、203番小木戸利光という受験番号と名前でしたが、その最初の203の記入が進まなかったのです。203と書いては、ダメだって思って、何回も消してもう1回 3を書き直したり、全部ダメだと思ってもう1回2から書き直したり、これだとダメだ、絶対に進めないという感じで、消しては書き直して消しては書き直してを何度も何度も繰り返して、15分ぐらいが時間が経過して、試験本番ですからヤバいって自分でも焦っていました。それでも進めなくて、そのうち試験監督の先生が、僕がすごく怪しい動きをしているものだから、不正をしているんじゃないかと感じたのか、パッと僕の席に近づいてきて様子を見に来たんですよ。その時にヤバい、もう本当に進まなきゃと感じて、繰り返しの行為は強制終了のようになって、実際の試験問題にやっと進むことができたのを覚えています。蓋を開けてみたら、そのテスト結果は満点でした。心と身体のものすごい不調和ですよね。ものすごく苦しかったです。本当に苦しいし、普通に前に進みたいのに前に進めないっていうそういう日々の中で、僕はほとんど無意識に近い感じで、その自分の行き場のない気持ちを文章にして書いたり、詩を書いたりし始めたのです。これが、僕がアーティストになっていく始まりです。たとえば、歌手が、自分の気持ちを歌にして書いて綴って歌っているのを見て、自分も母にも父にも弟にも誰にも言えない気持ちを書き綴ってみたりとか、それが、次第にギターを弾くようになってきたり、段々と表現が広がり深まっていって、いつの間にか、表現をするということが自分の仕事になっていきました。自分自身のありのままの心の動きや感情を、倫理とか良いわるいのジャッジメントなしに、ありのままにそのままに受け入れてくれたのが、僕にとっては芸術表現でした。どんな気持ちがあろうがどんな葛藤があろうが、倫理がどうとか関係なく、ありのままにそのままに受け入れてくれた。心のことを、詩にできるスペースを、歌にできるスペースを与えてくれた、もしくは、身体表現をするスペースを与えてくれたのが、芸術だったのです。ですから、今振り返って考えてみますと、この15年〜20年の間、僕は自分自身に芸術療法を行っていたのだと思うのです。胸のなかの気持ちを表現して外に出していくことを切実に必要としていただけで、当時の自分はそれが芸術療法であるとは考えてもいません。表現せずにはいられなくて、書いたり、踊ったり、歌い続けてきたのです。結果的に、その表現をするという行いは、自分自身を受け入れて、認めて、自分自身と和解するプロセスをつくってくれたのだと思います。表現している時は、そんなに理知的に物事を考えていません。
僕はシアターワークでいつも皆さんとお話をするのです。私たちの心と身体には、人生のその時々で、動きたい方向、向かいたい方向、心から深く望んでいる方向があるのではないでしょうか。この心と身体から今まさに表に現れたがっているものがあるのではないでしょうか、と。僕のように、それが芸術表現になっていく人もいると思いますが、たとえば、現実の生活のなかで、本当はパートナーにあることを伝えたいのだけれどずっと伝えることができずにいる。そんなことが、「表に現れたがっていること」に当たるかもしれませんし、そのかたちは人それぞれだと思います。芸術表現と言いますと、文章にするとか、何かの発信をするとか、人が誰かに何かを伝えるために意図的に表に現わすことをイメージされる方がおおいと思います。僕自身も表に現わすということをひたすらやってきましたが、それは、「この心と身体には、今まさにおのずと表に現れようとしているものがある」とも言い換えられるのではないでしょうか。それが、表に現れてこられるように、その通り道を開いてあげる、その回路を開けてあげる。表に現れたがっているものを出させてあげる。シアターワークで大切に扱っていることの一つに、こうしたことがあります。私たちの「心と身体の声」は、私たちの心と身体の調和を探求してゆくのに、とても大切なものではないでしょうか。
東大病院で心臓のカテーテル治療をされている稲葉俊郎さんと先日を対談したのですが、その時に稲葉さんが、芸術というのは心の内的な循環を促進してくれるものではないかとおっしゃっていました。要するに、食べ物が身体の物理的な栄養だとしたら、芸術というのは心の内的なエネルギーを循環させる心の栄養ではないか。その水路が流れてないと心と身体は沈み、その心と身体から表に出せないものが積み重なっていけば、それはどんどん心身の重さにつながっていく。芸術は、心の深い声と深層意識に触れるものであり、であるからこそ、心の内的な循環を促してくれるものである。稲葉さんは、医療と芸術は、もともと一つとして機能していたのではないかとおっしゃっています。つまり、今は医療と芸術は分野として完全に分かれていますが、もともとは一体となって働いていたのではないかということです。すごく印象的な話です。よくギリシャのエピダウロス宮殿の話をされるんですよ。その宮殿には円形劇場があり、療養所のようなところがあり、そこにはかならず温泉の跡地がある。つまり、心と身体に不調和が生じた時には、温泉に入り心と身体を存分に緩め、芸術を鑑賞することで表層意識から深層意識状態という自己治癒力が高まるゾーンに入り、保養する。また、その後に、神殿へ行き示唆に富んだ夢を見る。こういうお話をよく稲葉さんはしてくださいます。僕はアーティストになると決めてアーティストになったのではなくて、心と身体が「表現する」ということを切実に必要としてきて表現をせずにはいられなかったのです。その結果、それが仕事になっています。芸術表現というものは、心と身体の健康や調和を考える上で大きな力を与えてくれるものだと思います。シアターワークは、僕自身の人生の実践から生まれてきたものです。そのシアターワークが今は、ありがたくも、皆さんとも共有できるものとして育ってきています。
三木:そうするとシアターワーク理論体系みたいなのがあったわけじゃなくて、自分の中から出てきたみたいな?
小木戸:僕自身の人生での実践がベースとなっていますが、僕はイギリスの大学の演劇パフォーマンス科にて演劇を学んでいますので、もちろん系譜もあります。実際に俳優として、そして、演劇ワークのプラクティショナーとして、イギリスの演劇教育からおおくのことを学んできています。俳優として、シェークスピア演劇からパフォーマンスやムーブメントワークまで、プラクティショナーとして応用演劇などを学んできていまして、これらの系譜と僕自身の人生の実践が融合して、僕のシアターワークはできています。
●西洋のシアターワークと東洋的なシアターワークの融合と今後の展開
小木戸:僕はイギリスにて西洋演劇も学んできています。西洋のシアターワークにも様々な種類がありますが、基本的に、演じて演じて、身体を動かして動かして、互いに合わさって合わさって、交わって交わって、汗もいっぱいかいて、どんどん能動的にアクションをしていくワークがおおいです。一方で、たとえば、マインドフルネスや、鎌倉・逗子という土地との出会いから学んでいることは、この心と身体から何かを出していくというよりは、おのずと何かが浮かび上がってくる。「心と身体には、今まさに表に現れようとしているものがある」ということです。これは、たとえば、イギリスのワークとはものすごくニュアンスが異なるもので、とても東洋的だと感じています。
三木:イギリスには同じようなお仕事をされてる方も何人かいる…?
小木戸:もちろんイギリスには、シアターのプラクティショナーはたくさんいます。日本には俳優はたくさんいますけど、こうしたシアターワークのプラクティショナーという人材には、出会うことはあまりないですね。
三木:あまりいらっしゃらないですね。
小木戸:もちろん何人かはいらっしゃいますけど、イギリスはそういう意味では、演劇教育の豊かな伝統があり、プラクティショナーの層が厚いですから、先輩に当たるようなプラクティショナーがたくさんいて、僕も彼・彼女たちからたくさん学ばせてもらっています。一方で、東洋で培ってきた僕自身の感覚・感性というものもありますから、イギリスで教わったことをそのままやっているということではなく、僕のシアターワークは、独自の形を成していると思います。瞑想やマインドフルネスのワークも、どなたがリードしてくださるかによって、そのワークの質はまったく変わりますよね。ワークには、その人の人生そのもの、その人であるからこその繊細なニュアンスが現れてくるものだと思います。ですから、シアターワークは、自分自身の人生から生まれた特有のものであるとも言えると思いますし、やはり延々と受け継がれてきた叡智に支えられているものでもあると思います。先人たちの叡智に、確かに、支えられているという実感があります。
三木:なるほど。日本的な東洋的なものと西洋のものを今ご自身の中で融合されてるっていうことですか?
小木戸:はい。僕自身の感覚と塩梅で融合してつくっています。
三木:そういうのをイギリスで展開された時に受けられた方にどういうことがあるんでしょうか?
小木戸:お互いのシアターワークの紹介、共有、学び合いを、これからもっと進めていきたいと思っています。それぞれの文化や土地に根づいたシアターワークが、それぞれのアイディア・感性についての学び合いをして、世界のシアターワーク全体がより豊かなものになっていけば素晴らしいなと思っていまして、今そういうことも始めているところです。
三木:ちょうどインドでやられてきたんでしたっけ?
小木戸:インドでは今回、オディシャ・ビエンナーレという芸術祭のなかで、舞踊のパフォーマンス公演にパフォーマーとして出演し、その芸術祭の期間中に、インドの皆さまや世界各地から来ているアーティストたちとともに、シアターワークを行いました。
三木:それはどういう反応でしたか?参加された方は。
小木戸:三木さん、宇都宮さん、言葉で説明するよりも、ぜひ実際にワークを一緒にやりましょう!日本の大学でもシアターワークの授業は、ほとんど英語で行っています。留学生がたくさんいまして、国籍や文化的な背景や育ってきた環境は、本当に多様です。
三木:(インドでは)一般の方も参加される?
小木戸:はい。インドのゴールデングラスを織り込んで美しい籠や敷物を作っている工芸職人のオディシャ州の田舎の村の女の子たちとその子たちの指導者にあたる老女が参加してくれました。そこに、ビエンナーレでパフォーマンス公演に出演しているダンサーが加わってくれたり、日本人の芸術祭スタッフも参加してくれました。メンバーがとても多様で、英語が共通言語でもないですし、本当に私たちの身体でのコミュニケーションを頼りに大事に進めていきました。インドならではの、今まで経験したことのないような質の時間が生まれました。
シアターワーク、よかったら、どんなことをしているのか映像でご覧ください。
三木:それを皆さんに見ていただいたほうがいいかな。
<シアターワークの実践動画>
三木:場所はどこでやるんですか?
小木戸:1月は東京都内で、2月と3月は鎌倉で開催します。一般の方が参加できるワークショップです。シアターワークを体験してみたいという方から、シアターワークをご自身のお仕事の現場に応用することを視野に入れている教育者やセラピストさん、三木さんのようにビジネスやイノベーションのあり方を探求するプログラムのなかに取り入れてみたいという方々、シアターワークをご自身の心と身体のケアのために実践したいという方々まで、学生だけではなく、社会のなかの様々な環境にいる皆さまと、シアターワークを共有しています。
三木:zenschoolをやってて感じるのは、大きな組織にいる人達がとても心が不安っていうか限界みたいな状態だから、そこで「新しいイノベーションを起こせ」って言われてももう無理で、僕らがやってるのは結局その人が本来ある形に戻すお手伝いしかしてなくて、その前は何か変な型にはまってるんです。「私はA会社の課長です」みたいな型を脱ぎ捨てたらすごいクリエイティブな人になるんですけど、そこを戻すことが重要かなと思っていて。
小木戸:僕はワークののなかでは、最初の言葉による自己紹介をやらないことが多いです。○○会社の〜という紹介をやったらそこから始まってしまいますので、まずはゼロからバイアスなしに心と身体でお互いの自己紹介をしましょうということをよくやっています。あとは、三木さんもおっしゃったように、シアターワークは不安とか恐れに動かされないという実践です。恐れや不安がもとで、こうしてなきゃいけないっていうあり方でいますと、新たなるアイディアやイノベーションが生まれることはないでしょう。僕は、人が、本当に自分自身の深い動機とともにあり、心と身体が深く望むようにして動いていく方向の先に、その人独自のインスピレーションや創造性がポンと降りてくるゾーンがあると思っています。僕自身も、恐怖や不安から生ずる、こうしていないといけないのではないかという強迫観念にものすごく苦しんできました。そことどう対峙していけばよいのか、ずっと苦しみながら向き合ってきました。シアターワークは、望むように生きること、右に行きたくないのなら右に行かず、心と身体の望む方向へ行くという実践=プラクティスです。
三木:なるほど。素に戻るっていうか。
宇都宮:自然な感じっていうことですか?
小木戸:瞑想は、心と身体が何を望んでいるのかとか、望まないのかとかを言う前に、理屈を超えてゾーンに戻っていけるというところが、素晴らしいと感じます。その人本来の命が生き生きと輝く場所にビュンと戻れば、おのずとその時々の自分の命の仕事がどういうことであるかというのは感じられるのではないかと思っています。もしも道に迷って苦しんでいらっしゃる方がいるのなら、まず「心と身体の声」に立ち返るということは、とても大事なことではないかと思います。心と身体に意識が向いていれば、すぐにピンときて、その心と身体の声をキュッとつかまえる方もいらっしゃると思いますし、それが何のことであるかまったく分からないという方もいらっしゃると思います。
僕がシアターワークで、とても大事にしているのは、心臓の鼓動の存在です。心臓の鼓動というのは、この命がある限り、私たちの意図に関わらず、おのずとドックン・ドックン・ドックンという営みを繰り返してくれています。この心臓の鼓動に立ち返る。この心臓の鼓動を聞く。もしくは、このドックン・ドックンという鼓動を体感レベルで感じるとか、脈の動きを感じるとか、全身に血液が流れていることを感じるということからはじめます。そうして、丁寧に命そのものの営みに耳を澄ましていきますと、まるでまさに心の声が聞こえてくるかのような体験をすることがあるかもしれません。先日は、そうしたワークをインドでも、皆さんと共有しました。私たちは、文化、国籍、思想、宗教に関わらず、この心臓の鼓動=ドックン・ドックン・ドックンを繰り返しているという、共通の生命の営みで繋がっています。Contemplative Theatreというシアターワークを通じて、心臓の鼓動や呼吸を通じて、お互いの存在をつかむというか、お互いに繋がってゆく感覚が生まれてきました。心臓の鼓動は、私たちの命が今ここにあるということ、その尊さをいつ何時も伝えてくれるもので、心臓に手を当てれば、誰でもすぐに感じることができるものです。呼吸や瞑想も、今まさに自分の命がここにあるということを教えてくれますね。
シアターワークは、そんな心と身体の声をゆっくりと丁寧に聞いていくことを大事にしています。時々、「私は踊りや演技などできないですから」とか「俳優じゃないですから」とおっしゃる方がおられますが、そういうものとは違います。シアターワークは、私たち人間共通の根源的な感覚に光を当てているのです。芸術と言いますと、アーティストとか作家がやるものだと感じてしまうかもしれませんが、元来、芸術とは私たち皆の暮らしのなかに身近に存在していたものだと思います。たとえば、私たちは、こうして火をおこして食事を作り、地域でお祭りをやり、太鼓を叩き、歌や音楽を奏でて踊ってきたわけですよね。こうしたお祭りの踊りというのは、かならずしもプロフェッショナルなダンサーがやるものではありません。盆踊りとか、鎌倉のお正月の神楽などもそうだと思いますが、こうしたことは私たちの日々の暮らしのなかにあった実践です。たとえば、インドでも、もともと舞踊とか祈りなどは、大いなるものに対する表現としてされてきたことで、専門家がやるものではなかったと思います。それが、専門分化されて、芸術はアーティストとか作家の人がやるものになってしまい、皆にとって遠いものになってしまったのかもしれません。芸術というと大げさに聞こえるかもしれませんが、お祭りとか、たとえば、日本のさまざまな儀式とか、祈りとか、お正月に松を飾ったりとか、そうしたものは暮らしのなかの芸術実践そのものだと思うのです。現代社会のなかでは、あらゆることが合理化されすぎて、こうした霊性とともにあるということがすごく少なくなってしまった結果、私たちの心と身体は悲鳴を上げているのではないでしょうか。シアターワークは、そうした、本来私たちとともにあった暮らしのなかの実践を取り戻すための方法の一つとも言えるかもしれません。そういう意味で、シアターワークは、儀式的なものと言ってもよいかもしれません。人と人が実際に出会い、ともに手足を動かし、心と身体で交流をするのです。
三木:儀式ね。
小木戸:儀式ですよね。三木さんと逗子のワークショップでご一緒した時も、最後には不思議な儀式的な演劇ができてきましたね。それは、私たちがそれぞれに私たちのままでいることからはじまり、最後に私たちみんなの即興で生まれたものです。シアターワークは、私たちの交流の場であり、あの時も、すごく儀式的に感じました。シアターワークというのは、たとえば、現代社会のなかで失われつつあるこうした身体的実践をもう一度取り戻す方法の一つとして機能している側面があると思います。人間の根源的な感覚は、私たちに等しくあるものですので、シアターワークは分野を越境しながら、様々な分野でシェアしていきたいなと思っています。Zen2.0とか、鎌倉のコミュニティで、もしもなにか困った局面が訪れた時には、みんなで輪をつくってシアターワークをやるというのは、いかがですか?
三木:Zen2.0のコミュニティにぜひ。今年も9月19、20日にやるので、その前にたぶんお疲れモードの時があるので、そこでみんなの感情を1回吐露してもらうっていうのがいいかな。
小木戸:シアターワークで、お役に立てましたら、本当に光栄です。そういう場でこそ、シアターワークはすごく優しく働いてくれるものですので、ぜひ鎌倉にて皆さんとご一緒できましたら嬉しいです。
三木:ありがとうございます。
●小木戸さんの考える「日本(世界)の○○の未来」に対する想いについて
三木:最後に皆さんにしている共通の質問がありまして、小木戸さんにとっての○○の未来、○○は自分で入れていただいてもいいんですが、自分の未来に対する想いというのを…
小木戸:この○○とは、何ですか?
三木:それは自分で決めていただいて、シアターワークの未来でもいいですし、シアターワークが社会にこういう風になっていったらいいなっていう想いがあれば。
小木戸:自分のその想いを言葉で表すということですか。
三木:はい。ちょっと難しいですけど。
小木戸:今までアーティストとして自分のなかにあるものを表現してきましたが、シアターワークを皆さんと共有できるようになってからは、自分のなかから出していくということだけでなく、皆さんとともにお互いに生かし生かされるような場を創ることができるようになっていると感じています。こちらが一方的に発して何かを感じてもらうということよりは、お互いに教え合ったり、学び合ったりという、双方で築き上げてゆく交流の場が生まれています。ですから、この文脈で言うと、その○○というのは、「共に生きる」でしょうか。
三木:いいですね。
小木戸:共に生きるとか、還元し合う、とかでしょうか。
三木:共に生きていく。
小木戸:生かし合うといいますか、個で完結する世界というよりは、他者とともにあることで新しい自分に気づいたり、お互いの関係性に愛を還元していくような、それが僕の未来です。
三木:これからの時代にZen2.0も今年共に生きていくこの惑星(ほし)をどう作っていくかっていうのを少しテーマとして考えたいなと思っていて、環境のこともあるし、紛争のこともあるし、あらゆることを人類の意識の1つ上のレベルで考えていかないともうこの星では生きていけない状態になりつつあるかなと。共に生きていくっていうのはすごい共感しますね。
小木戸:本当に鎌倉、逗子、葉山エリアが大好きでして、かなりこちらに通うようになっていますので、皆さんとともに、これからよりいろんな活動ができればと思っています。
宇都宮:移住はされるんですよね。(笑)
小木戸:その可能性がかなり高い。
三木:いい家を見つけておきますから。
小木戸:そうなりましたら、本当にますます皆さんとともにあるということになりますし、そういうご縁を感じていますので、これからよろしくお願いします!
三木:今日はわざわざ鎌倉までお越しいただきありがとうございました。
小木戸:ありがとうございました!
●対談動画
小木戸利光さん略歴
Theatre for Peace and Conflict Resolution 代表
シアターワークの実践家として、国内外の教育機関・企業・民間にて、演劇・芸術表現・ボディワークを応用した身体的な教育プログラムとしてシアターワークを展開するほか、芸術療法としてドラマ・ムーブメントセラピーを施す。講演・講義歴に、へいわフォーラム、国連、CAMPUS Asia ENGAGE(早稲田大学、北京大学、高麗大学)、早稲田大学大学院、慶應義塾大学、東京大学、スタンフォード大学、埼玉大学、関西大学、WorldShift、日本ソマティック心理学協会大会など多数。
アーティストとしての主な出演作に、長崎の被曝2世の葛藤を描いたNHK「あんとき、」(主演)、映画「菊とギロチン」大杉栄役、TBS「報道特集」密着ドキュメンタリーがあり、著書にエッセイ集「表現と息をしている」(而立書房)がある。