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「白村江の戦い」とは何か・・その真実

飛鳥時代に起こった、最大の海戦!

「白村江の戦い」、皆さんは何と読むのだろう?
「はくそんこうのたたかい」、今はこう読むのが一般的だと思う。

我々、昭和世代は、「はくすきのえのたたかい」と読んでいた。

当時授業で、倭国が無謀な戦いを仕掛けた!
と習った。
朝鮮半島にまで渡り、得るものの無い戦いに及んだと。
きっとそうなんだろな〜と、深く考えずにいたが、後年よくよく調べるとそんな単純なものではなかった。

天智2年8月(663年10月)
玄界灘を渡り、朝鮮半島に攻め行った大和王権。 結果は大敗北。
しかし、よく考えて欲しい。
海が荒れる玄界灘、東シナ海を超えて大軍を派兵したのは大和王権側である。

NHKなどの再現VTRで、度々、小舟で立ち向かい、唐の大型船団にボコボコにされる映像を流すが、これはもう自虐史観そのものだ。

では、どのような経緯で大和王権が大軍を派兵するに至ったのかを追うことにしよう。

白村江は赤丸あたり⇧

当時、もはや「倭国」ではなく「日本」になろうとしていた。
大和王権の中心には、皇太子「中大兄皇子」が君臨。
その母、「斉明天皇」の時代、弟に「大海人皇子」後の天武天皇。
この二人の兄弟は、本当に実の兄弟かどうか、後の叔父甥による皇位継承争いなど、血生臭い噂が絶えない。

第37代「斉明天皇」は、重祚している(最初は皇極天皇:第35代)、この間、実際に政治を行っていたのは、息子の「中大兄皇子」(後の天智天皇)
(重祚:ちょうそ:再び即位すること)

では、当時の斉明天皇政権を振り返ってみよう。
この人は、天皇の中でも波乱に満ちた方であろう。
有名な「乙巳の変」(いっしのへん)、飛鳥時代645年(乙巳の年)に起こった、蘇我入鹿を宮中で斬殺した事件。
蘇我本宗家を滅ぼした大事件、この時の天皇が、皇極天皇(斉明天皇)で実行犯が、中大兄皇子と中臣鎌足。(亡くなる前日に藤原姓を天智天皇より賜った)
これは、中大兄皇子が起こしたクーデターであって、だまし討ちにされたのは蘇我入鹿であり、その父の蝦夷。
中大兄皇子にとって、蘇我本宗家が邪魔であり、排除するチャンスをずっと伺っていたと想像する。
ただ、蘇我本宗家も横暴であったとされる。
聖徳太子の息子である山背大兄王に軍勢を差し向け、上宮王家を滅亡させたと伝わるが、これも勝者の歴史書である日本書紀に記された虚像かもしれない。
中大兄皇子は体制を刷新し改革を断行した、俗に言う大化の改新である。

乙巳の変(いっしのへん):中大兄皇子に首をはねられた蘇我入鹿、奥へ向かう後ろ姿が皇極天皇

皇極天皇4年6月12日、乙巳の変で息子たちがクーデターを起こし、目の前で蘇我入鹿が切り殺され、翌13日に父親である蘇我蝦夷も自害に追い込まれた。
甘樫丘にある邸宅は火に包まれ、この時に蘇我本宗家は滅んだ。
14日、斉明天皇は余りのショックに退位し、弟の孝徳天皇に王位を譲った。

この孝徳天皇は、中大兄皇子とそりが合わず、孤立し失意の中亡くなる。
これも、中大兄皇子の仕業かもしれないが、今となっては不明。

皇極天皇は重祚し「斉明天皇」となった。

ここでも、中大兄皇子はまだ即位しない!(できないのではない、しない)

大和王権は、朝鮮半島への軍事介入を考えるようになる。
考えているのは、中大兄皇子だが斉明天皇は正に御輿とされている。

その発端は、百済の王子「扶余 豊璋」(ふよ ほうしょう)が、当時日本に住んでいた。(便宜上、日本と記す)これは、一種の人質のような身分であったかもしれない。百済の義慈王時代(660年)、唐と新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)によって百済が滅亡した後も、鬼室福信(きしつ ふくしん)たち、百済王家の者たちが抵抗を続け百済復興を願い、日本に軍事支援を求めてきている。それと同時に、鬼室福信は、大和王権に豊璋の帰国を要請し許され、豊璋は百済最後の王となった。

ChatGPT:白村江の戦い風:画像
白村江の戦い!:GPT作

664年5月に、「郭 務悰(かく むそう、生没年不詳:中国唐代の官吏)が、戦勝国の責任者として来日した。
白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国(日本)を訪問している。
2,000人にも及ぶ、倭国軍(大和王権軍)の捕虜を連れて、戦勝国の大使が捕虜交換と国交修復のために来日している。

しかし、この使節団は入京を許されなかった。(都へ近づけない)
戦勝国の大使が、戦敗国の大王に会えない!
こんな事があるだろうか? 捕虜解放までして。

わかりやすく言うと、第二次世界大戦敗北後に乗り込んで来たマッカーサーを、港に留め置き拝謁どころか、東京入りさえ許さないような事が、現実にあり得るだろうか?

それから5か月後の同年10月に、郭務悰らを送り出す勅が発令され、中臣鎌足が僧侶の智祥(ちじょう)を派遣して、手土産を郭務悰に与えている。
その3日後、智祥は郭務悰らに饗応されており、12月に帰国の途についている。

そう、ここにも真実が隠されている。
白村江の戦いで敗れたのは事実、しかし唐や新羅はそうは考えておらず、国交修復を願い出てきている証拠だと考える。
まだまだ対等な関係の証拠ではないのか。

唐 新羅連合軍武将のイメージ:GPT作

この後、都は近江大津宮に遷都(667年)しており、中大兄皇子は、この宮で正式に即位し天智天皇となった。この宮で、近江令や庚午年籍(こうごねんじゃく)など律令制の基礎となる施策を実行。

この遷都も、唐・新羅連合軍が攻めて来る恐れがあるので、奈良飛鳥よりも防衛に適した、滋賀近江で守りを固めたと考えられる。
同時に、九州や中国地方各地に、水城や山城を築かせた。

古代の都イメージ:GPT作


斉明天皇の最後

唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。
しかし、ここで病となり、7月に没した。

斉明天皇は、白村江の戦いの二年前には、都から遠く離れた九州の地で崩御されていた。
百済王朝が滅んだ時には、もう旅立たれていた。
しかし、何事も無かったかのように朝鮮への出兵は進められ、大敗北へと繋がる。
実権を握っていたのは、「中大兄皇子」であって斉明天皇は飾にすぎなかった。
長く皇太子として表に立たず、常に裏に控え物事の全てを動かしていた、皇子。
669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
鎌足は、自身が藤原性を名乗ることは無かったのだろう。
息子の「藤原不比等」は、またこの国を大きく変貌させる人物で、藤原氏の祖は不比等なのだろう。

藤原不比等イメージ図


斉明天皇から天智天皇、そして天武天皇へと世が移っていった。
天智天皇は、自身の娘を四人も天武天皇(当時:大海人皇子)へ嫁がせている。
これは実の弟に対してすることだろうか?
さらに、この二人のには不思議な事がある。
大海人皇子の妃であった「額田王」は、二人の子である十市皇女をもうけた後に、中大兄皇子に嫁いでいる。
いったい何があったのだろう?

「額田王」(ぬかたのおおきみ)
二人の天皇を虜にしたのかもしれない。

額田王(ぬかたのおおきみ)イメージ

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