【映画所感】 イコライザー THE FINAL ※ネタバレ注意
ザコだと思っていたら、実は“殺人マシーン”だった!
「エンタメあるある」なジャンルムービーの中において、もっともスカっとするストーリーといっても過言ではない『イコライザー』シリーズ。
最新作にして最終作…?
今回の舞台は、アメリカ本土を遠く離れ、イタリアはシチリア地方の漁師町。
デンゼル・ワシントン演じる元CIAの凄腕工作員、ロバート(ロベルト)・マッコールは、瀕死の重傷を負ったところを、この港町に医院を構える老医師に助けられる。
血で血を洗う裏稼業で疲弊しきった心と身体は、老医師とその周りの人たちの献身によって、徐々に回復していく。
抗いきれない暴力の中で、過酷な日々を生きてきたマッコール。
孤独な彼にもやっと安寧が訪れたかに思えたのも束の間、心優しき港町の住人たちを、イタリアン・マフィアが日常的に蹂躙していることが、マッコールの知るところとなる。
大切な人を傷つけられたマッコールが取れる手段はただひとつ。
世捨て人のようなヒーロー、最後にたどり着いた平穏な土地、漁村、漁師、大切な家族、そして復讐…
これらのキーワードから、アニメ『忍風 カムイ外伝』(1969・フジテレビ)の、第21話「女左衛門」から第26話「十文字霞くづし」(最終話)にかけて綴られるストーリーが思い浮かぶ。
『忍風 カムイ外伝』は、白土三平の忍者漫画が原作で、現在もつづく国民的長寿アニメ『サザエさん』の前身番組だった。
ほのぼのとした『サザエさん』の世界観とは真逆の、人間の業をことごとく晒していく『忍風 カムイ外伝』。
今では考えられないような残酷描写の数々で、日曜夕方の茶の間を凍りつかせていたことは想像に難くない。
江戸時代、忍者の掟を破り“抜け忍”となったカムイ。彼の目を通して語られる、身分制度の底辺であえぐ人たちの生活がなまなましい。
追っ手から逃れるため、素性を隠し旅をつづけるカムイが最後にたどり着いたのが、瀬戸内海に浮かぶ孤島「奇ヶ島」(くしきがしま)。
縁あって同じ境遇の抜け忍一家に居候することになったカムイ。サメ漁を生業とする集団に加わり生活の糧を得たのだが、追っ手はそんな彼を決して見逃してくれることはなかった。
最終回、新必殺技「十文字霞くづし」を繰り出し、追っ手・不動(サメ漁師たちのリーダー)を退けたカムイ。
だが、簡単には死なせない。
両腕をバッサリと斬られ、「殺せ」「殺せ」「殺してくれ〜」と懇願する不動。
「殺すわけにはいかんっ」
「いや、そう簡単に死んでもらっては困るのだ!」と返すカムイ。
「貴様に裏切られて死んでいった抜け忍たちの苦しみを噛み締めながら死ぬんだな」
「苦しめ」「苦しめ」「もっと苦しむんだ!」
小舟に縄を巻き、その先にくくりつけられ沖に曳いて行かれる不動。
無惨に斬られた両腕から流れ出る血のにおいを嗅ぎつけて、忍び寄ってくる腹を空かせたサメたち。
カムイの選択した制裁は、不動を生きたままサメに喰わすというものだった。
未就学の頃から、再放送で繰り返し観てきたシーン。当然、家庭用ビデオデッキなどなかった時代。
それでも、復讐の鬼神となったカムイの行為は、50年以上経った今でも鮮明に記憶している。
思えば、サメ映画の金字塔『ジョーズ』(1974)のクライマックス、クイント船長の壮絶な最期のはるか以前。
昭和40年代の少年少女は、人喰いザメの恐怖をカムイによって植え付けられていったのかもしれない。
いや、それ以上に人間の愚かさ、命の儚さと尊さをこそ教え込まれたといっていい。
輪廻転生やよみがえり、天界からの召喚、はたまた平行世界やマルチバース…カムイの棲む世界に、そんな都合のいい夢物語は存在しない。
死ねばそれっきり。
当時の子どもたちにあたえた影響は計り知れない。どこまでも非情で無慈悲な世界。
白土三平は忍者をモチーフにして、実存主義を説いたのではないだろうかとさえ思えてくる。
『イコライザー』のロバート・マッコールは、CIAの諜報・工作活動に見切りをつけ、フリーランスとなった。
かたや、戦国時代のインテリジェンスともいえる忍者の世界を抜けたカムイ。
マッコールとカムイ、お互いトラブルを回避しようとすればするほど、さらなる不幸に見舞われる。情に厚いが、自分に危害を及ぼす者は容赦しない。
隠密行動を得意とし、敵を殲滅する術に長け、殺しのテクニックは唯一無二。
悲しみに打ちひしがれ、カムイは去った。
マフィアを壊滅させたマッコールは、果たしてどうするのか。
これだけは言える。
作品において必要ならば人体破壊も厭わず、子どもだろうが女性だろうが関係なく等しく死に直面させる。
差別表現をものともせず、理不尽な制約、行き過ぎたコンプライアンスに屈することなく、人間そのものを描ききった白土三平こそが最強なのだと…