無知の知について思うこと

 最近の賢い人はみんな「無知の知が大事」という。「Twitterの言論人に知性とは何かを聞いてみる」というアンケートで、ほとんどの人が「無知を自覚して謙虚に学ぶ」みたいなことを書いていた。noteの哲学系ブログでもよく見る。なんかモヤモヤする。多分本気でそんなことを思っていないのが丸見えだからだと思う。「俺は謙虚だ」と言っている人が一番傲慢である。
 多分これは時代的な背景がある。知識が専門化されすぎて、「全て」を知ることが不可能になったので、「全知全能」というポーズをする代わりに無知の知を気取っているのだと思う。パスカルは「オネットム」といって、専門にハマるのではなく満遍なく知っている人のことを理想としていたが、細分化されすぎてオネットムは不可能になってしまった。

 僕の解釈では、無知の知というのは宗教的信念である。無知の知とはそもそもソクラテスが「ソクラテス程の知者はいない」というデルフォイの神託を受け取ったところから始まる。そもそもの始まりに信仰がある。無知の知って謙虚のポーズなんかではなく、全実存が否定によって震撼させられることだ。
 本当に無知の知をやっている哲学者って池田晶子ぐらいしか知らない。この前、池田晶子のソクラテスの本を読んでいたら、本当に何も知らなくてびっくりした。なんの知見もない。
 無知の知というのは宗教的信念であるがゆえに、イデアという「彼岸」へ飛んでしまう。「善って何なのか全く分からない」から「善そのものというお話」に飛んでしまう。

 清沢満之という日本初の宗教哲学者が死ぬ直前に書いた文章。

私は、何が善だやら何が悪だやら、何が真理だやら何が非真理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、何も知り分ける能力のない私、隨って、善だの悪だの、真理だの非真理だの、幸福だの不幸だの、と云うことのある世界には、左へも右へも、前へも後へも、どちらへも身動き一寸することを得ぬ私、この私をして、虚心平気に、この世界に生死することを得しむる、能力の根本本体がすなわち私の信ずる如来である。

我が信念

 「何にも知らない」ということに実存が慄くと、「如来」までぶっ飛んでしまう。

 坐禅や瞑想というのは「無知の知」に震撼することだとも言える。

仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。

正法眼蔵現成公案

 坐禅により自己の風景を見ていると、人間的な見解が落ちていく。そうすると「宇宙全て」が真理になる。

 最古の経典にも無知の知が書かれてある。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

スッタニパータ

 聖書にもある。

よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

マタイによる福音書 18:3-5

 「無知の知」って「中途半端」だと最悪になる気がする。勉強不足の言い訳にも使えるし、インテリへのルサンチマンにも使える。なんかよくない使われ方をしているように思う。無知の知は「逃げ込む場所」や「言い訳」ではない。


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