自己犠牲について考えたこと イエス 宮沢賢治 ヴェイユ
全ての死は「無意味」である。全ての死は犬死にである。
母親の葬式に参列した時、大勢の友人や仕事仲間が集まって泣いていたのを見て「人の価値というのは、葬式で泣いてくれる人の人数だ」とどこかで見かけた文章を思い出した。自分が死んだ時にどれだけの人が泣いてくれるだろうか?
僕は、キリスト教で一番救われているのはイエスその人であると思う。十字架に磔にされて死んでしまったが、2000年間もの間、ずっと葬式が続いている。たくさんの人が彼に感謝を伝えている。僕自身は無神論者で、神や原罪や復活などの教義は古代人の妄想だと思っているので、僕の視点から見れば、キリスト教で一番救われているのはイエスである。人類史上、一番「価値のある死」をすることができた。価値のある死ほど尊いものはない。
僕の仲良くなる人は、みんな宮沢賢治が好きだ。特に「雨ニモ負ケズ」が好きだ。あの自己犠牲の精神。「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」という驚愕の台詞。僕自身も憧れていたのだが、最近は思いが少し変わってきた。少し病的なんじゃないかと考えるようになった。
僕は「NO」と言えない性格で、ずっと損をしてきた。自分が我慢すれば丸くおさまるなら、それでいいと思ってきた。だから「無私」というものに憧れていて、仏教に惹かれた原因の一端もそこにある。
けれど、自分を押し殺して相手を救うというのは、少し病的じゃないか。僕の場合は「他人に嫌われるのが怖い」というエゴイズムが自分を押し殺すことに繋がっていた。
ヴェイユなんかも自己犠牲の塊だけど、そこには美しさではなく、偏執狂とか、潔癖症というものが感じられる。「たとえこの身が汚泥となりはてようと、なにひとつ穢さずにいたい」という言葉が有名だが、強烈な自己否定がある。自己嫌悪と自己犠牲って、何が違うんだろうか。
アフリカに支援をしているユーチューバーを一時期見ていたのだが、その人が、人を助けるために重要なのは、魚を与えることではなく、釣り方を教えることだ、と言っていた。僕もそう思う。メンタルヘルスの問題のある人に、いくら愛情と労力と時間とお金をつぎ込んでも、その人が救われることはない。もっと魚を求めるだけだ。そうではなく「心を整える方法」を教えるべきなんだと思う。
と思っていたのだが、なんとなくカウンセリングやマインドフルネスや認知行動療法や日光や運動を匂わせても、人は不幸に浸りたがるし、結局、人を動かすことはできない。家族にも恋人にもできない。恐らく本人にもできない。僕がメンタルヘルスの泥沼から抜けられたのは「知識を得るのが好き」「真理が知りたい」という欲求から瞑想を続けられたおかげだが、この性質は運で手に入れたものだ。僥倖とか恩寵としか言うことができない。人が救われるには僥倖か恩寵しかない。
宝くじがあたればそれなりに救われるだろうが、それに類することが自分に起こった。だけれど、それを他人に起こすことはできない。
そう思って、不幸な人たちと関わるのをやめた。すっきりした。傾聴をしても殴ってくるし、毎日ネガティブな呟きばかりしているし、疲弊するばかりだった。別に彼ら、彼女らにとって僕は必要ではなかった。魚を与えてくれる人だけが重要で、僕はのけ者にされていた。最後まで友人になれなかった。魚をずっと求めているだけで、僕は魚になれなかったから。
不幸な人って、自殺するかアル中になるか薬物中毒になるかしかないんだろうか。自分の見たパターンだとみんなそうだった。同情するけれど、もう疲れてしまった。
友人にも僕と似た行動をする人がいるのだが、僕より極端だ。不幸な人の話をすると「ぜひ話したい」「力になりたい」と言ってくる。自分のメンタルも掌握できていないのに、他人を助けられるわけないだろと思う。メサイアコンプレックスとか、そういうものを感じる。自分にもそのケがあるんだと思う。
医学にも福祉にも仏教にも神にも家族にも恋人にも友人にも見捨てられている人がたくさんいる。仕方ない。
仕方ないんだと思う。どうしようもできない。どう頑張っても物は重力に従って落ちるし、不幸な人は不幸なままなのだと思う。僕がどうこうできる問題じゃない。仕方がない。仕方ない。
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