中間者 愚痴 ヨブ記 仏教

 「愚痴」というのは仏教では「真理が分かっていない」という意味だ。今では愚痴という言葉は「愚痴をこぼす」と使われるが、愚痴をこぼすのは真理が分かっていないからだ。
 人間とは、無と無限の中間にある、中途半端な存在だ。「無」になるには大きすぎるし、「無限」を知るには小さすぎる。素粒子にとっては無限に大きいが、宇宙にとっては無限に小さい。

 ヨブ記は面白いと思う。ヨブという信心深い人間の信仰を試そうとして、神がヨブの家族を皆殺しにしたりヨブを病気にさせたりする。が、ヨブは愚痴をこぼさない。友達がやってきて「お前が不正なことをしたんだろ」「お前の信仰が悪い」と言われるが、頑なに「私は善良だし信仰も間違ってない」という。そこに神が現れて「お前は本物だから全部返すよ」と言って元通りになる。
 友達には理解できず、ヨブに分かっていた真理は「人間は中間者である」と言うことだと思う。「無限=神の意志」は、中間である人間には認識することができない。いくら「不条理」だと思えても、中間者の認識はアテにならない。
 普通はヨブの友達のように、因果関係や責任を追及すると思うが、ヨブは無限を信じている。クリスチャンの友人に話を聞くと「信じても助かるかどうか分からない、誰が救われるのか分からない、それでも神の栄光を表しながら生きる」と言っていた。未開人は、災難がくれば神の祟りだとし、病気が起きれば隣村の呪いだと言う。この「神の意志は計り知れない」という世界観は相当に画期的なものと思う。カミュとかサルトルの世界観に近いんじゃないか。

 仏教は逆に、徹底的に自業自得を説く。自分の蒔いた種を刈り取るという世界観だ。仏教では「苦」の原因を「自己」に求めるので、自己を無化することでしか救われない。「苦」というのは「思い通りにならない」という意味だが、「思い」を削除して、「事実」だけ残す。中間者の、世界に対する「望み」を滅する。神は望むだけで世界を創造することができるが、中間者が望んでも何も叶わない。
 無は何も望まない。中間者は望むが叶わない。神は望むし叶う。仏教徒は無を志向する。

 無限を信頼して不条理を生きるか、無を志向するか。中間者というのは一番ツラいと思う。一神教にも仏教にも共通するのは「人生は思い通りにならない」ということだと思う。この一点を腹落ちさせれば、人生なんとかなるんじゃないか

勉強したいのでお願いします