反出生主義の自然観
YouTubeに鈴木大拙の「最も東洋的なるもの」という講演がアップロードされていたので聞いた。1963年に録音されたものなのに音質が物凄く良かった。
「反出生主義は理論的に正しいか」という問いの立て方が良くないと考えている。「なぜこのような歪な思想が現代に生まれたのか」という問いを立てる。恐らく「自然観」の変遷にある。
よく言われることだが、近代ヨーロッパは自然を「征服する対象」として見た。これは歪な思考だった。人間も「自然」であることが自明であったのに、人間を自然から除外して、自然を対象として操作するようになった。科学の発展はこの自然観の転換がなければあり得なかった。多分淵源は聖書の「人間中心主義」にある。聖書には「海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」と書いてある。この人間中心主義から神を取っ払ってしまえば、人間が自然を征服するのは当然なことになる。「自然は神が創り給うたものだから、感謝して享受しよう」という思想が「自然に神聖なものなど何もないのだから、人間に都合の良いように作り変えよう」になる。美学の本で読んだが、古代や中世は「山」など恐ろしい汚らわしいもので、「登山」なんて考えられなかったらしい。近代に入り山が「崇高」という美的カテゴリーに入れられるようになって、登山が流行したという。登山というのは自然の征服の象徴かもしれない。
鈴木大拙は、東洋の「自然」というのは「自ずから然る」だと言っている。この「おのずから」の問題については竹内整一という学者の人が深く研究している。正直本を読んでも元々日本に「思想」などはなく、感受性だけがあったのだから、結論は判然としない。だから「おのずからとみずからのあわい」という言い方をしていた。
大拙によると「自然に則って生きる」という生き方があったという。ここでは「じねん」と読んだほうがいい気がする。じねんと辞書で引くとこう出てくる。
1 (「に」や「と」を伴って副詞的に用いる)おのずからそうであること。ひとりでにそうなること。
「—と浸み込んで来る光線の暖味 (あたたかみ) 」〈漱石・門〉
2 仏語。人為を離れて、法の本性としてそうなること。
3 少しも人為の加わらないこと。天然のままであること。
「なるようになる」とよく言われるが「なるようになる」という素朴な言い方が日本人の心性をよく表している気がする。霊的必然性と呼びたい。
両親に「なんで僕を産んだの」と聞いたことがあるが、困惑して「欲しかったから」とか「本能だから」と言われた。問いの意味が分からなかったのだと思う。生物というのは原始の海で誕生してから「増える」ということを続けているのだから、「少しも人為を加え」なければ「産む」というのは「おのずから」でしかない。
また池田晶子の話をするが、あの人は絶対に子供を産みたくなかったという。子供を産む意味が分からないと書いていた。理知が強すぎる。意味なんかない。おのずからそうなっている。「進化論」というのは「価値論」ではなく「事実」であるから、進化論が正しいからといって、「では生物は増えるべき」とはならない。ただ、事実として、「自然」にそうなっている。自然にそうなっていることに則るのが東洋的な感性だとしたら、西洋人は理知で「自然」をズタズタにしたのだろう。
「神聖な自然」「畏怖すべき自然」「神秘的な自然」「順うべき自然」というような「感受性」の喪失が「反出生主義」という思想を産んだのだと思う。全ては均質な「物質」で出来ていて、個人は「自然」からも「親」からも全く切り離された「権利」を持っている。徹頭徹尾、近代ヨーロッパの圏内の思考だ。
「どういう重力の中で思考しているのか」と問うほうが根源的だ。反出生主義はくだらない。
僕は東洋を理想化しすぎるきらいがあるが、近代を相対化するには東洋という装置は有用だと思う。「生まれてこないほうが良い」というのは不幸な思想だと感じる。このような思想が育つ「感受性」が不幸だ。
もう以前の自然観に後戻りするのは不可能なので、これからどうなっていくか見守るしかない。最近は数年~十年ほどで、人の考え方や感じ方がすぐに変わってしまう。僕の子供の頃はゲイは嘲笑の対象だった。
「反出生主義」に対する反感はあるんだけれど、それよりも「なんでこんな歪んだ現象が起きるのか」ということに興味がある。思想の考古学をやりたい
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