自閉症スペクトラム障害の心理学 心の層
この年までASDとして生きてきて、定型の人や発達の人とたくさん関わってきたが、層として捉えると上手く言語化できるんじゃないかと思った。ASDの人は「自我がない」だとか、いやむしろ「ナルシスト」で「共感性がない」とか矛盾したことが言われるが、その辺が整理できるような気がする。
定型の人もASDの人も、第一の層には「自我」がある。この自我は「自己中心性」や「万能感」と言い換えてもいいと思う。エゴの部分。人が自己中心的なのは当たり前だけれど、徐々に人は「社会性」を身に着けていく。ASDは「社会性」が欠如していると言われる。
第二の層は、定型の人は「社会的自己」を身に着ける。「人格」や「仮面」と呼びたい。自己中心的な自我だけでは当然人は生きていけないので、相互に調整するために仮面をかぶる。それが「常識」だったり「暗黙の了解」と言われるのだが、ASDの人はこの仮面が形成されない。だから「空気が読めない」だとか「自己中心的」と言われる。社会的なアイデンティティに頓着しない。定型の人に「どこかに所属してないと不安じゃない?」と言われたことがあるが、学校に所属していても「自分はこの学校の生徒だ」と思ったことがないし「自分はこの家族の一員だ」「自分はこのグループの一員だ」と思ったことがない。所属意識が欠けている。求めようとも思わない。2年前に診断書を見ると「勤労意欲が皆無」だと書かれてあって、「労働しようと思わないこと」は「異常」なんだと初めて知った。
当然そのままでは生きていけないので、ASDが生き残るためには2つの方法がある。1つは「引きこもる」であり、2つ目は「擬態」である。僕は前者だが、2つ目の方法をとっている人もかなり見てきた。
「擬態」をしている人は、第一層の「自我」により「仮面」を形成しているので、疲れる。ずっと「演技」をしているような感覚がある。僕も学校へ通っている時は絶えず演技をしているという感覚があった。この擬態に振れ切った人は、定型の人より「八方美人」になっている人が多かった。誰にでも気を使い、「最適」な「仮面」を学習して実践しているので、凄く良い人に見えるし、人望もある。ただ本人は「人と関わるのが疲れる」「自分が誰なのか分からない」という気持ちになる。
擬態して仮の社会的自己を創り上げる以外に、ASDの人は第二層が欠けている。僕もそうだけれど、自分が誰なのか分からない。だから僕は哲学や瞑想をしているんだと思うが、未だに分からない。この不安を解消するための層が「こだわり」なのだと思う。
僕は12年間引きこもって毎日読書をしているが、あんまりないことらしい。社会的な人格が欠落しているので、その部分を補うために「こだわり」という「行為」で補っているのだと思う。読書以外にも「この時間に散歩に行く」だとか「毎日同じ場所に座る」だとか、かなりルーティンが決まっている。逆に、ハプニングが起きたり、日常と違う「予定」ができたりすると、かなり狼狽して不安になる。それは「同じことを繰り返す」ことによって社会的でない「自己同一性」を確保しているからだと思う。その行為が邪魔されれば不安になる。ASDの画家の友人は「絵を描くのは呼吸のようなもの」と言っていた。
定型の人同士の部屋、定型と発達の部屋、発達同士の部屋、の3つの部屋を作って会話させたところ、ストレスがあったのは定型と発達をミックスさせた場合だけだったらしい。この結果には僕も頷く部分があり、僕は定型の友達が一人もいない。友達はみんな発達障害だ。
友人同士でよく「世の中の人は計算高くて嫌だ」「腹の底で何を考えているのか分からない」というような話をするのだが、定型の人は「社会的仮面」で会話をしていて、ASDはもっと根っこの「自我」で会話をしているので、ASDからすれば「素を見せろよ」という感じになるのだと思う。定型からすれば「距離感のおかしい人」と思われていると思う。
最近社会にかなり変動があるが、AIなどによって労働環境が変われば、ASDの人も生きやすい社会になるかもしれない。現状は、研究職、プログラマー、ライターなど人と極力関わらない仕事をするか、過剰適応によって鬱病になるか、引きこもるかぐらいしかないと思う。
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