夏のせいじゃない
改名しました。
以前の名前は、「夏のせい」。
その前の名前は、「全部、暑いせいだ」。
暑さやら季節やらに責任を転嫁する人間ですと、以前投稿した「夏のせい」という記事に書きました。
しかし、実は私、本名に「夏」という字が入っています。(夏生まれではありませんが)
この「夏のせい」という名前、季節に責任を転嫁しているように見えますが、実際には、「全部自分が悪い」という自己否定の意味が大きかったのかもしれません。
この名前を付けたのは去年の夏。
この頃の私は、なりたかった職業のプロへの道を失い、暑さで自律神経がやられ、とにかくやさぐれた文章を書いていました。
特に「夏のせい」という記事は、暑さに頭がやられて他人への当たりが強くなるということを書きました。
尖っていて、他者に攻撃的。他罰的で、責任を季節に転嫁する、やる気のない人間。
みたいな書き方をしていましたが、実際には真逆だったのかなと、今では思います。
なりたい職業のプロになれなかった自分への失望感、努力不足をなじる自責感、認められなかったことによる自信の喪失感、当時のパートナーに振られたことで受けた女性としての欠落感、周りの人との比較から来る劣等感などなど…
あらゆる面において私は、自分に絶望していました。でもそんな自分を受け入れられず、人のせいにすることで、弱い自分と向き合わずに済ませていたのかもしれません。
私の中では、なりたかった職業に就く夢さえ叶えば、自分の人生は逆転できると本気で信じていました。
側から見たら、正直そこまで不備のない人生です。家庭環境も劣悪ではなかったし、周りにも恵まれていました。
なのに心の中では常に不安でした。
「自分は必要のない人間ではないか?」
昔親が喧嘩していた時や、集団行動が苦手で上手く立ち回れなかった時、友達の役に立てなかった時に「自分なんていない方がマシなんじゃないか」と感じていました。
自分の存在への否定は、私の潜在意識に深く植え付けられていたようで、事あるごとに私は「ここじゃないどこかに逃げたい」と感じていました。
「逃避行」にも書きましたが、私の旅行好きはここに起因すると考えられます。
新卒で会社員になった時には、「自分がいない方が会社的に良いに決まっている」「上司に嫌われている」という、全く根拠のないことばかりを考えていました。
しかし業務に慣れ、有難いことに成績も良く、2年目で役職を頂いた時に、私はとっても満たされた心地がしました。
「私は社会にとって有益な存在なんだ」と。
それが、異動した先での上司と合わず、体調を崩して会社を辞め、仕事へのプライドは木っ端微塵に砕け散りました。
「ああ、結局ダメなんだ私は」
そう思いながら、なりたい職業のプロを目指していましたので、そりゃあ自分の人生を逆転できると信じていてもおかしくないと思います。
そして私は、その夢が叶わない可能性を1mmも予想していませんでした。何故なら、周りの人もみんな、あなたなら向いてるし絶対になれると言ってくれていたから。
自分を否定する私は、周りの声だけを信じていました。あれだけ周りから言われるなら大丈夫だと。
また、その道のプロとして働いてる方と交際していた時期があり、その方にお墨付きを頂いていたのも大きかったです。
なのに、私はプロになれませんでした。
今ならわかります。私には、将来に対するビジョンがなかった。私にとってはプロになることがゴールで、なれればもう人生の幸せが確定して、お仕事は全て事務所から頂けて、私はそれをただこなすだけだと。
自分がどうなりたいか、どういう活動をしたいか、どういうことを人に伝えたいか、そんなことは二の次でした。
いつも惜しいところまで行けたのは、ただ技術だけを磨いたから。最終的には中身が勝負なのに、プランも何もなく、ただ自分の存在を認めてほしかっただけの私には、到底無理なお話でした。
審査員の方に、「あなたには個性がない」と言われた時はかなりショックを受けました。人間的に面白みがない、平凡、いてもいなくてもいい存在、むしろいらない存在。
そんな風に突きつけられたと感じてしまいました。
そんなこんなで元々自分を否定してきた私は、徹底的に自分が全て悪いのだと、心の奥底で思っていたのでしょう。
だって普通に考えたら、ペンネームに「(自分の名前)のせい」なんて名前付けます?
いや何で私のせいにせなあかんねん、ふざけんな!と、ムカつきませんか?
でも当時の私は甘んじて受け入れていたようです。本当に自分が全部悪くて、いらない存在だと思っていたからだと考えられます。
今年に入ってから私は、自分が自分自身を否定してしまう、アダルトチルドレンであることに気がつきました。
アダルトチルドレンとは、幼少期に受けた傷が未だに残っており、大人になってからも生きづらさを感じる人のことをいうそうです。
自分の心を守るために身につけた防衛機制が、大人になっても過剰に働いてしまい、それによって生きづらくなっているということですね。
うちの両親は毒親でもないし、DVなどもありません。しかし、幼少期に心が傷ついたエピソードはいくつかあり、思い出していく内に何度も涙が出ました。
あの時は辛かった、悲しかった、寂しかった、もっと甘えたかった、と。
たくさん泣いた後に思い出したのが、小学1年生の時分に、学校の課題で親に手紙を書いてもらうというもので、母親が書いてくれた手紙でした。
「あなたは神様がくれた宝物です」
当時まだ漢字が読めず、代わりに大人の人が読んでくれましたが、その一説を聞いた時に私は大泣きしました。周りの子は親の手紙を読んでもらっても誰も泣いてなかったのに、一人だけ大号泣。私は少し恥ずかしかったけれど、温かいスープを飲んだ後のように、身体がポカポカしていたのを覚えています。
その日は帰宅してから、ずっと母親にくっついていました。
嬉しかったなあ。
もちろん親に対して思うところはたくさんありました。でも、産んでくれたこと、育ててくれたこと、親なりに愛情を持って接してくれたこと、今一緒に暮らしていてとても楽しいこと、全てに感謝しています。
そしてその後、今まで友達が贈ってくれた言葉がたくさん思い出されました。
「あなたがいてくれたから、勇気を持って行動できた」
「あなたのことを思い出すと、あったかい気持ちになる」
「ずっと憧れてた」
「あなたから良い影響をもらえる」
人からもらった美しい言葉に、何度も何度も感謝して泣きました。
そんなことを考えているうちに、あれ、周りの人達って、私のことめちゃくちゃ大事に思ってくれてるな、と感じました。
今では親とも仲良いし、中学高校大学それぞれ仲が良かった子達とは、今でも遊んだりして良好な関係を保っています。
先日は高校の同級生とプチ同窓会をし、そこまで関わりがなかった子達とも、仲良くなることができました。
今、私のこと大事にしてないのって、私だけじゃない?
そう思った時に、せっかく親や友達が大事にしてくれている私を、どうして私が大事にできてないんだ!?という驚きがありました。
自分で自分を大事にする。自分を否定しない。そのことを意識して生きる。
そして、周りの人達への感謝の気持ちを返せるようになりたい。
そう思えた時に、しばらくは、これを自分の信条にしようと思いました。
そんな意識で日々生活していく中で私は、
「もっと自分のペースで歩いてみようかな」
「人に気を遣いそうになったら、自分はどうしたい?と問いかけてみようかな」
「物事を判断する主導権は私が自分で握る、それが自分の人生に責任を持つことなのかも」
と考えるようになりました。
これは私の人生であり、常に選択権は私にある。人からどう思われるかは関係ない。それはその人の人生の感覚であって、私の人生とは関係ないし、その人が責任を取ってくれるわけでもない。
全て私が決める。私がしたいことをする。
何があっても、私は私を尊重する。
私は、今までの私の全てを許したい。
だからこそ、周りの人達を尊重したい。
その人達の人生に過度に介入しない。
でもずっと見守る。困っていたら助ける。
一緒に楽しいことをしたい。
いっぱいありがとうを伝えたい。
そして、全てを許したい。
そう思えたからといって、人生が劇的に変わったわけではありません。
相変わらず小さなことにイライラします。
しかし、相手を攻撃したくなる奥にある、自分の気持ちを汲み取る努力をするようになりました。
「本当はどうしたかった?どうしてほしかった?どうなったらいいと思ってた?」
「自分が否定されたように感じた。でもそんなことないと思うよ。大丈夫だよ」
自分の感情第一で考えるようになり、私って意外と繊細だな、なんてことに気がつきました。
「本当は大好きだから、嫌われたくないと思ったんだよね」
自分の中に、深い愛情がたくさんあることに気がつきました。私って思ってたより情に厚いんだな、と気付きました。さそり座の女だもんな。
「こんなことでイライラするなんて、私は短気でダメな人間だ」「こんなに怠けてるなんて、私は向上心のない人間だ」と自分否定モードに入ることもありますが、
「小さなことでも我慢せずに自分の感情に寄り添ってあげたい」「全て受け止めてすっきりさせてあげたい」「ゆっくり休もう」
と自分を労わる気持ちが出てくるようになりました。
そして自分を労った後に相手方のことを考えると、相手には相手の事情や都合があることに気付き、相手の気持ちにも寄り添いたいと思えるようになりました。
私は自分のことが、今はそれなりに好きです。
プロになれなかったし、変なバイトしてるし、集団行動苦手だし、お肌荒れてるし、お洒落でもないし、料理もできないし、字も汚いし、ミーハーだし、感情の波が激しいけど。
そんな自分も悪くないと思っています。
好きで、大切な存在だからこそ、否定したくないと思えています。
今でも昔の嫌なことを思い出したりしますが、思い出したら、当時の自分を労ります。私達は同じチームやで、協力していこうなって昔の自分達と肩を組みます。
そして、周りの人達に思いを馳せて、私の想像の中で、肩を組んで感謝します。
これからの人生、何が起こるかはわかりません。とりあえず、約1ヶ月後には、海外留学のために渡航している予定です。帰ってきたら、もう一度正社員になりたいと考えています。
お金をたくさん貯めて、親とインドネシアに旅行したいです。できれば、リッツカールトンに泊まりたい。
実現できずにまた病むかもしれませんが、そうなったらそうなったでまた自分を労ります。
自分の感情を大事に、これからどう生きていくか、都度向き合っていきたい所存です。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
そして、今生きづらさを感じている方みなさんが、自分自身を大事にできることを祈っています。