【禅を仕事に活かす】 心の傷を消す必要はない あなたに与えられた人生の宿題とは
あなたには、今も心の傷として残っていることはありますか?
私の場合、大学受験のことは今でも時々夢に出てきます。「朝がきたのにまったく宿題が出来ていない」「問題をみてもまったく答えが分からない」「受験本番で大失敗した」光景が決まって出てきます。
中学校までは自分で言うのも何ですが優等生でした。それが県内トップの進学校に進んだところから悪夢がはじまりました。
まったく勉強が手につかなくなったのです。いつもやらねばという気持ちはあるのですが、机に座ってもまったく集中出来ない。眠くなる。
もっとも苦しかったのは、問題を解けるイメージが湧かないこと。何が分からないのかが分からないのです。当時はその悩みを打ち明ける人もおらず、1人で苦しんでいました。浪人時代を含めて暗黒の4年間だったと思います。
あのとき、一体何がおきていたのか?
どうすれば良かったのか?
その問いは自分をコーチという道へ導いてくれたように思います。さまざまなクライアントの悩みに出会う中で、あのときの原因が分かってきました。
理由の一つは、トップの進学校には、自分より頭のよい人がたくさんいることです。少しくらい頑張っても中学校のようにトップにはなれません。それが焦りを募らせ、目の前のことに集中できなくなっていました。
あのとき、普通の学校に進んでいたらどうだったでしょうか。普通の学校であれば、やる気があがりトップをとれていたかもしれません。
やる気を左右する要因には、さまざまなものがあります。周りの環境や人達によって、やる気はいとも簡単に大きく左右されるのですが、私自身がそうだったように多くの受験生は気づいていません。受験生のメンタルトレーニングでは、自分は高いレベルで切磋琢磨する方が力を引き出されるのか、それとも人と比べて焦ってしまうのかを考慮します。志望校を決めるとき、絶対に偏差値の高い中学校や高校に進学する方がよいということではないのです。普通の環境の方が、ノビノビと力を出せる受験生もいるのです。
もし私が高校受験をする前に戻れるとすれば、地元の普通の高校を選ぶでしょう。そして、この過去に対する答えは、今私がする選択そのものです。
過去は今につながっているのです。
私はトップを目指してしまう傾向があります。小学生のときはそうではなかったので、恐らく転校していじめられた頃から、バカな連中を勉強で見返そうとしたあたりから、負けたくない魂に火がつきました。
大学受験に失敗しても、トップを目指すことは変わりませんでした。地元の銀行に就職し、当時、最年少で頭取賞を受賞しました。転職したテレビ局では、報道記者としてスクープを連発し、独自の調査報道が認められギャラクシー賞も受賞しました。
でも銀行は、頭取賞をとった一年後に限界を感じて退職しました。報道でギャラクシー賞をとった頃には、情熱が燃え尽きかけていました。駆け上がっているときはいいのですが、だんだん孤独感が強くなり、優越感と劣等感のはざまで苦しむようになります。人も信じられず、結果的に周りからの信頼も得られなかったのです。
そして、放送局を退職し、コーチになって14年。最初はコーチ界のトップを目指していました。世界のトップコーチになれる自信がありました。収入の目標を決めて3倍の数字を独立数年で達成するなど、快進撃でした。ただ、そのまま突っ走っていれば、今頃はコーチを止めていたかもしれません。
せっかく違う人生を歩み出したのに、同じ轍を踏んでいたのです。
手っ取り早くたくさんの収入を得られる方法を考えはじめる。
あれほど楽しかったクライアントとのセッションが、面倒くさくなってくる。
これではいけないと思いました。
いけないと思いながらも、自分では止められません。一度勢いがつくと、さらに次の仕事が舞い込みます。疲れ果てながらも、さらにアクセルを踏み続ける日々。そして、忙しさのピークだったある朝、顔の右半分が動かなくなりました。顔面麻痺でした。
病気になったおかげで、ようやく止まることができました。その頃からでしょうか。生きる方向性が少しずつ変わってきたように思います。
大分前から坐禅会には通っていたのですが、トップを目指していたとき、坐禅は心を鎮めるためのスキルであり、集中力を高めるという目的ありきでした。結局、過去の習慣をさらに強化するために坐禅を使っていたのです。それでも一定の効果があるのが坐禅の怖いところです。
病気を経験し、坐っているときのあり方が変わりました。何も求めないあり方。周りとの調和の中にいるというあり方。ただ、自分に気づくというあり方。
自分をトップへと駆り立てるものを手放していきました。組織コンサルタントの仕事、研修講師の仕事をやめ、コーチングの仕事だけが残りました。すると、収入はピーク時の半分以下に一気に減りましたが、気がつけば、セッションへの情熱が戻っていたのです。
禅と出会う中で、「普通でいい」ということを知りました。
「普通でいい」という場所にいること。「普通でいい」という人達と一緒にいること。「普通でいい」という空気の中にいることで、安心するのです。
私が本当に求めていたのは、トップではなく、安心感だったのです。
「普通でいい」という空気の中でいると、自然にやる気が溢れてきます。もちろん、何もやる気が起きないときもありますがそれもOK。進んでも止まってもいいのです。そういう揺らぎの中で、一つ一つのことにじっくりと取り組んでいくのがいいペースであることを発見しました。また、コツコツと深めていくのが好きなことも発見しました。
もちろん今でも、ときどきバランスが崩れるときがあります。そんなときは、「トップを目指す」「上を目指す」「人に勝つ」という方向性にエネルギーが向き始めています。以下のような心の状態が起こります。
・人と自分を比べる
・ジャッジが強くなる
・先走る(待てない)
・自分優先
・怒りが爆発する
・批判、否定する(相手も自分も)
・優越感と劣等感で揺れ動く
・嫉妬する
・自分にないものをうらやむ
・評価で一喜一憂する
・すごいかすごくないかで人も仕事も判断する
・特別でありたい
・無理に押し通そうとする
・許さない、許せない
これは慣れ親しんだ私の癖です。ただ、これはコインの表です。表があるから裏が見えてきます。それが私にとって「普通」でいることなのです。だから、心のバランスを時々崩すことは必要ともいえます。
人には、決して消えない「傷」があります。「疑問」かもしれません。
・なぜ自分は人に嫌われるのか
・愛されたい人に愛されないのか
・なぜ自分は孤独なのか
・自分の居場所はどこか
・何のために生きているのか
・なぜ自分は人を傷つけてしまうのか
・この言葉にならない苦しみはなんなのか
それは、人にとっては「過去のささいなこと」に映るかもしれません。「あなたはそれだけ成功しているのだから気にしなくていいよ」と言われるかもしれません。
しかし、そうではありません。「傷」や「疑問」は消えません。消す必要がないのです。だって、その疑問はとても大事だからです。
といっても、過去の私のように何かを見返すためにその傷や疑問をバネすることをオススメはしません。屈辱を晴らす。誰かを見返す。何が何でも勝つ。誰にもバカにされないすごい人になる。お金で何でも買えると考える。
ただ、そう生きるしかない人もおられると思います。それも人生です。人はそれぞれの問いに、それぞれのやり方で答えを出そうとします。そういう道を通らないと納得できない場合もあります。
逆に言えば、とことんやりきることで見えてくるものがあります。そういう人を必要としていたり、好きだと言ったりする人もいます。人生に正解、不正解はないのです。私は嫌いですが(笑)。
一方で、「傷」について知り、「疑問」を解きたいと求めている方がいます。そういう方に出会うと、少しでもその謎が解けるようにお手伝いをしたいという、おせっかいな気持ちが私の中から湧き上がってきます。
同じことを何回も話されるクライアントがおられます。なにかが納得できていないのです。葛藤が残っているのです。でも、本人は無意識で、何回も同じことを話していることに気づいていないのです。
それこそが「あなたに与えられた人生という宿題」です。
ほぼすべてのクライアントが最初、解決することを求めてやってこられます。でも本当に必要なのは解決ではありません。本当の課題に気づくことです。本当の疑問といってもいいかもしれません。
与えられている宿題は、求めているものと一つなのです。だから与えられた宿題に気づけたとき、問題は成仏します。そして、また新たな問いが生まれます。生涯かけて謎を問い続けていくのです。
そんなセッションを続けていると、あるとき、同じことを言わなくなるのです。いろいろ問題を抱えていても穏やかな表情をされています。
謎を解くための鍵は、「普通の言葉」です。
ちなみに、私がトップを目指していたとき、虚勢を張った言葉を発していたと思います。また、人を寄せ付けないバリアを張りながら話していました。これは「普通の言葉」ではありません。
「普通の言葉」とは・・・
上からでも下からでもない言葉です。
大きく見せようとも、小さく見せようともしない言葉です。
人の意識は普段、外側に向いています。そうでなければ安心できないからです。
そして、そんな環境、関係性の中では、自分を守る言葉になります。
あるいは、相手を否定したり、攻撃したりする言葉になります。
そこには真実はありません。
でも、その方向性は、なかなか自分では変えられません。
私の役割は、特別な存在になることではありません。
普通でいることです。
私自身が普通でいると、場が普通になっていきます。
普通でいいという環境は、人の心に安心感を生み出します。
そして、次第にその場の空気が「素」に戻っていきます。
素に戻るとき、素の言葉が生まれてきます。
どんなに良いことも言っていても、上から言われていると感じれば、拒否感が生まれます。
逆に、どんなに悪口を言っていても、素のあり方で生まれた言葉は、本音としてスッと受け入れられるのです。
人は環境や相手にいとも簡単に影響されると書きましたが、これは「素」の方向への働きとも言えます。
まったく良い人もいないし、まったく悪い人もいないのです。
自分がいるべき場所でないと無理をしてしまいます。
その場、相手によって、良い人にもなるし、悪い人にもなるのです。
そもそも何をもって「良い人」「悪い人」というのか微妙ですが(笑)
人生は本当に短いです。でも特別なことをする必要はありません。すごいことを成し遂げる必要もありません。
肩の力が抜けると、その人らしい言葉が出てきます。
普通でいるためには、普通にいられる場所にいること。
普通でいるためには、普通でいられる人といること。
私は、禅に出会うことで、「普通」というあり方を知りました。コーチングのセッションをしているときの自分が一番普通です。そして、14年が経ちました。
不思議ですね。普通にしていると、日々が「スペシャル」なのです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。今回の内容はいかがだったでしょうか。
この記事を書き始めた当初は、自分のために書いていたように思います。自分が持つ疑問や気づきについて、書きながら整理できていました。割合で言えば、自分向けが9で人向けが1くらいの比率。ほとんど独り言ですね(笑)。だから、書くだけで良かったのです。
それがいつしか、読者の皆さんの存在が大きくなっていきました。ちなみに今回は、自分向けが4で読んでくださる方向けが6くらいでしょうか。他の人への意識が大きくなるというのは、外側へのエネルギーが強くなっているということです。内向きだった自分のあり方が、少しずつ外に向けて開かれているのかもしれません。
自分が書きたいから書くのも真実。受け取ってくださる方がいるから書けるのも真実。
自分のために書く。人のために書く。
その間で揺れながら浮かび上がってくる言葉を拾い続けます。