見出し画像

ぼくのおばあちゃんは、元気で、活発で、今日も必死で暇をつぶす。

ぼくのおばあちゃんは80歳を過ぎたところ。一人暮らし。

チャキチャキ歩き、部屋の中はいつも小走りでせわしない。いつも友だちと過ごしてて、温泉やなんやと旅行へ行く。

一見羨ましくもみえる生活を送るおばあちゃんは、実は今日も、必死で、暇をつぶす。


今が幸せというおばあちゃん

ひとりきままで、働かなくてもよくて、友達とランチしたり、旅行へ行くおばあちゃん。

おばあちゃんは、

「今がほんとに幸せ。」
「こうやって旅行にも行って働かずに生きていけてるんだから。」

といったあと、続けてこういった。

「朝起きてなにをしたらいいかわからないの。何もせずに、ぼけっとしてたら認知症になりそうで怖いし、なにかしないと。退屈もつらいね。」

「こうして生きていけるんだから恵まれてると思う。早く、お迎えこないかな。」

毎日退屈で大変

おばあちゃんは、介護施設でボランティアなんかもしてた。

認知症になった自分と同い年ぐらいの人を見て、自分もこんなふうになってしまうのだろうかって怖さを感じていたんだと思う。

何もしなかったら、何もすることがない。子育ても仕事もない。テレビを見てボケっと過ごすぐらい。そんなのしんどいし、頭も溶けちゃいそう。何かしないと…。

怖さを原動力に暇をつぶすおばあちゃん

友達と会ったり旅行に行けたりするのは、忙しい世代からすると羨ましい限りなんだけど、でも、おばあちゃんがそうやって活発に動くのは、実は楽しさからじゃないのかもしれない。

怖い、不安って気持ちが原動力になって動いているように見えた。

ぼくのおばあちゃんだけの話じゃない

ぼくは理学療法士だった。病院の他にも、家に訪問してリハビリしたり、デイサービスなんかでも働いたりした。ほんとたくさんの高齢者をみてきた。

みんな暇を持て余してる。

「テレビを見ることぐらいしかやることがない。」

なんて人をたくさん見てきた。

暮らしの場になんにもない。だーれもいない。

なんでこんなことになってるんだろう。

ぼくは、暮らしが営まれるその場が空っぽになってることが、大きな原因なんじゃないかと思ってる。

子どもは学校に、大人は仕事に。

休みの日だって車で遠くへ。

家は寝るところで、休むところ。そこにはもう、人も仕事も残されていない。

残っているのは、暇を持て余すおじいちゃんとおばあちゃん。

そして、がらんとした住宅の間を走り抜ける、介護と病院の車だけ。


ぼくがやりたいこと。暮らしの場に関係性を。

いろんなものが便利になり、外注され、暮らしが空っぽになっていく。

ぼくは暮らしに根を下ろして生きてみたい。

子どもは保育園に預けてはいるけれど、毎日預けなくてもいい。

車で行かずに歩いて行っている。車で行ったら速いけれど、その間の偶然の出会いとか、歩く中で広がる子供たちの声とか、寄り道とか、そういうのを大事にしたい。

これから畑なんかもやっていくつもり。

小さなことだけれど、ぼくらの住むこの場所の暮らしの一風景となれたらうれしい。

僕らの暮らすこの場所の自然と、人と、関係性をもって生きていけたらと思う。

もちろん、おばあちゃんちにもちょくちょく顔を出しながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?