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【ss】街クジラ #シロクマ文芸部

街クジラが歌っている

数日前、東京上空にクジラが現れたが、どうやら見えているのは俺だけらしい。ためしに高校生の娘に、「今日の雲、面白い形してるな」と振ってみたところ、「あーね」と返ってきた。それがどういう意味だかわからず、話はそれきりになった。

さすがにあんなに大きなクジラが空を泳ぎ、歌っていたらニュースになるだろう。でもニュースにも人の口にものぼらないから、きっとこれは俺にしか見えないクジラなんだろう。

クジラは、「ホゥ⤴︎ホゥ⤴︎」でも「クゥワクゥワ」でもない表現が難しい鳴き声で歌い続けている。

お前はあの時のクジラなのか

40年程前、空にクジラが現れたのは4時間目の体育の時間だった。1年2組のみんなはどうしているだろうか。故郷の町を離れ随分経ち、だんだん疎遠になってしまった。

あの日、クジラ雲から降りると普段通り給食を食べた。不思議なことに、それから誰もあの話をしなかった。担任はその後校長になり、隣町の小学校で退官を迎えたと聞いた。まだ健在だろうか。

街クジラは今日も歌っている。

「おーい、ここへおいでよう」

つぶやくように言ってはみるが、でもなあ、『雲に飛び乗って怪我でもしたら保険はきくだろうか、明日は大事な会議があるし』なんてことを考えてしまうあたり、もう、若くはないんだよな。家族もいるしな。

土曜日の早朝、そっと家を出て少し離れた土手に向かった。まだ薄暗いのに、犬の散歩やランニングをしている人がパラパラいる。

「天までとどけ、一、二、三」

突然大声で叫ぶ中年男にぎょっとした人が、小型犬を抱えて走り去った。『すみませんね、怪しい者ではあるけど、危害は加えないんで許して下さいね』

腹を括るともう一度大声で叫んだ。

「天までとどけ、一、ニ、三」

つよい風がふいて体をふきとばし、気がつくとあの日のようにクジラの背にのっていた。
クジラは青い青い空をどんどん進んでいく。

やまのほうへ、
むらのほうへ、
うみのほうへ、

海を越え、大きな街を越え、草原を越え、森を越え、氷河を越え、小さな町の上空で空が暗くなってきた。ドンドンと音がして下をのぞくと花火があがった。満天の星、月は見えない。

突然、空一面を緑色の光が覆った。

「オーロラだね」

耳元で声がして隣を見ると妻がいた。 

「やっとリベンジできたねぇー」

新婚旅行でオーロラツアーに行ったものの、一度も見れずに帰国したのだ。いつかまた、と言っていたのに結局行けないままだった。
時間もお金も余裕がなかったから。

生き物のように形を変えながら渦を巻き、畝り、空を彩るオーロラを二人で寝転んで見る。あの頃のように柔らかく温かい妻の手を握ったまま。
クジラは夜の海をゆっくりゆっくり泳いでくれた。

1時間程たっただろうか、オーロラは始まった時と同じように突然消えた。

「夢が叶ったよ、2つも」

話したいことがたくさんあったのに、何も言えなかったな。

クジラはマンションのベランダにそっと俺を降ろすと、まわれ右して明るくなってきた空をゆっくり泳いでいった。

そういえば、誰にも話していないと思っていたクジラ雲の話を妻にはしたんだ。あれは、まだ彼氏と彼女だった頃かな。あんな夢みたいな話をきいて、「私も乗ってみたいな」って言ってくれたんだ。

妻の遺影に手を合わせる。

街クジラはもう俺の前には現れないんだろう。
また来てくれたら嬉しいけどな。

さて、まだ起きてこない子供たちのために朝食を作ろう。



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