自死に想う

ウェルテル効果、というものがあるらしい。

ドイツの詩人ゲーテによる『若きウェルテルの悩み』を読んだ若者たちが相次いで自殺したことにちなんでおり、メディアの自殺報道によって自殺者が増えることが証明されたという。

このウェルテル効果まではいかなくとも、竹内結子さんの自死は僕にとって(同時に、世界中の人たちにとって)とてもショックな出来事で、日曜日から気持ちがどんよりと沈み込んでいる。

今こうして文章にすることさえもつらいことなのだけど、気持ちを整理して前に進むためには必要なことだと思い、記しておきたい。

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一度も会ったこともない人の死が、心に重く響くという体験は初めてだと思う。

今まで多くの芸能人の報道に触れてきても、正直そこまで大きな衝撃はなかった。

それだけ、女優・竹内結子が僕の中で(無意識に)身近な存在であり、価値観の一部を形成していたのだろう。

『黄泉がえり』、『いま、会いにゆきます』、『天国の本屋』は大好きな映画だったし、泣いた。

間違いなく、一番好きな女優だった。

悲しい。

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小林麻央さんのように、生きたくても生きられない人がいる一方で

自ら命を絶ってしまう人もいるわけで、

なんて人生は不条理なのか、と思ってしまう。

でも、自死を選ぶ人も、今が苦しい、ラクになりたいという思いからの苦渋の選択であるから、「幸せになりたい」という気持ちの根っこの部分は同じなのだと思う。

みんな幸せを求めている。

でもそれがどこにあるか分からない。

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死ぬってどういうことなんだろう?

子どものころによく考えてた。

お寿司やさんなんかで見た生けすに入った魚たちと自分は同じだなって思ってた。

外の世界はよく分からないけど、時間が来たら仲間が救い上げられていなくなってしまう。

外の世界や、仲間がその後どうなったかは知る由もない。

そしてやがて自分の番がくるのをただただ泳ぎながら待っている。。。

この世界は生けすと同じだなと思った。

外の世界がどうなっているか分からないし、誰も教えてくれない。

でもとりあえず今日も僕らは泳いでいる、と。

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それと、子どものときに思ってたことをもう一つ。

いつどこで誰から聞いたのか分からないけど

「自殺すると地獄に行く」

と思い込んでいた。

なぜだろう。自殺は無条件で悪いことだと思っていた。

自殺しないで天寿をまっとうした人は天国で、自殺した人は地獄に行く

子どものころは、そんな死生観だった。

でも、大人になって多くの物事を知って、経験して

自殺することは「絶対悪」とは思わなくなった。

今がつらい、生きたくない、という人たちとたくさん関わってきたからだと思う。

自分がどのように生きて死ぬかは、その人に選ぶ権利があるように思えてきた。

うまく言葉にできないけれど、残された人がどうこうというよりも、本人の意思決定の方が尊重されるべきだと思った。

今つらいときには、どんな理屈も通用しない。

「まわりの人が悲しむから」

「生きていると楽しいことがあるから」

とか、今まさに自死を考えている人には何の効力も持たない。

ラクになりたい、消えてなくなりたい、すべてを終わらせたい、

この一心になるから、家族や仕事のことなどどうでもよくなってしまう。

自死を止める言葉は存在しない、かもしれない。

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身近な人が自死を選ぼうとしたとき、僕は止めた。

大切な人を失いたくなかったからだ。

でも、振り返ってみると、それは単なる自分のエゴイズムだったのかもしれない。

本人の苦しみや悩みを理解してあげられていたかと聞かれると、確証は持てない。

でもとにかく、その時は無我夢中だった。

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個人的な肌感覚として、自死の原因には3つあると思う。

1つは、つらいことがあってすぐの衝動的なもの。

2つ目は、うつ病によるもの。

3つ目は、人生の漠然とした不安に耐えきれなくなってのもの。

衝動的なものと、うつ病によるものは、気をつけなければならない。

ほんのちょっとのことで生死を分けてしまう。

たとえば、オーバードーズや首つりは、本人のちょっとした行為の差で一命を取り留めたり、取返しのつかないことにもなってしまう。

大学生のとき、交際していた女性と別れたとき、その女性がオーバードーズで病院に運ばれたことがあった。

自殺未遂をしたこと、幸いにして一命をつなぎとめたことを友人づてに聞いたが、僕は罪悪感がいっぱいで連絡することもできなかった。

そもそも僕がきっかけで自死を選ぼうとした人に、僕からかける言葉なんてこの世にあるのだろうか?

今でも反省することは山ほどある。

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地球上のありとあらゆる動物の中で、自死を図るのは「人間」だけだという。

その意味で、良くも悪くも「自死」という行為は歴史上の大発見であり、大発明でもある。

人は何よりも「死」を恐れる。一番怖いのが「死」である。

そんな絶対に死にたくない人間がなぜ自ら死を選ぶのだろうか?

それは、「死の不安」と「今のつらさ」を天秤にかけたときに、後者に傾いてしまうからなのかもしれない。

「今」があまりにもつらいとき、その苦しみが死の不安以上に膨れ上がったときに、人は自死の道を選び、決行してしまう。

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自死は是か非か。

僕の考え方としては、幸せを願う気持ちを尊重して、自死は個人の持つ権利だと思う。

でも、まわりの人を悲しませてしまうのであれば、それはきっと悪なのかもしれない。

僕にはよく分からない。

でも、もし、僕のまわりの大切な人が自死を選んでしまったのであれば、やはり悲しいし、悲しすぎる。

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残された私たちが今、そしてこれから未来にできることは何だろう?

せめてそれは、亡くなった人たちから何かを学ぶことだと思う。

何かを学び、それを活かして幸せになること。

僕はあらためて、大切なことを二つ学んだような気がする。

一つは、自死にまで追いつめられている人の苦しみや生きづらさに寄り添うということ。そして、より多くの人たちが生きやすい社会のしくみを作っていくこと。

そしてもう一つは、「死」というものの存在を日々意識することで自分や家族や友人の「生」を大切にしていくこと。

死は誰にでもいつかどこかで訪れるものであり、亡くなった人は二度と帰ってこない。

だからこそ、その現実を受け入れて、今の人生を一笑懸命に生き抜くこと。

それこそが死に打ち克つ希望であり、本当の意味で、私たちの心の中への”黄泉がえり”なのだと思っている。

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