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散歩と雑学と読書ノート


千歳川

精神医学史の中のクレペリン


1.はじめにーパラダイム・メーカーとしてのクレペリン

パラダイムという概念はよく知られているように、トーマス・クーンが「科学革命の構造」という著書の中で提示した概念である。この「科学革命の構造」の新訳が今年(2023年)の6月に青木薫訳でみすず書房より出版された。新訳のなかではクーンを一貫して支持してきた科学哲学者イアン・ハッキングが序説を書いている。岩波の「思想」10月号で新訳をめぐる特集が組まれていて、野家啓一がハッキングの序説の末尾に触れている。末尾は「本書は本当に、「現在のわれわれの頭にこびりついている科学像」を変えたということだ。永遠に」と言う賛辞で結ばれている。

クーンが変えた「科学像」とは、「科学は検証と反証を繰り返しながら知識を確実に積み重ねつつ、「真理の王国」を目指して進歩していく」という論理実証主義が抱く科学像で、科学は連続的に進歩していくというものである。

クーンは「パラダイム」や「通常科学」や「通訳不可能性」という概念を駆使して、科学の歴史の「連続的進歩」という旧来の見方から「断続的転換」へと大きく書き換えたと野家は述べている。

さらに野家によると、パラダイムという用語は現在は幅広く使用されているが、クーンの著書が出版された当初はさまざまな批判にさらされた。クーンはパラダイムの概念の多義性、曖昧性という批判に答えて、パラダイムを二つの意味で用いていることを認めた。一つは「検討対象となっているコミュニティのメンバーが共有する、信念、価値、テクニック、等々の集合体の全体」を表す社会学的パラダイムであり、それは後に「専門性のマトリックス」と呼び換えられる。もう一つは「模範となる過去の成果としてのパラダイム」であり、これは「模範例」と名ずけられた。クーンの没後、科学論は科学史・科学哲学から科学技術社会論(STS--Science,technology and society)
へと転換していった。

今回私がここでとりあげたいと思っているのは、精神医学史のなかでのクレペリンという存在をどうとらえるかという事である。

はじめに、中井久夫が名著「西欧精神医学背景史」(みすず書房、1999)の序でクーンのパラダイム論をとりあげて、クレペリンに関してもふれている箇所を引用させていただきたい。

クーンの用語を用いれば、十八世紀後半以前は前パラダイム期である。しかし、それ以後今日までも、たとえばフロイト、クレペリンのごとき偉大なパラダイム・メーカーにもかかわらず、なお「パラダイム間の闘争期」をでておらず、あるパラダイムの終局的勝利と通常科学への移行の見通しはまったくない。
精神医学史の全体が科学史の枠内に収まりうるか、収められるべきか、がそもそも問題である。ギリシャにおいてもヨーロッパにおいてもヒステリーの発見は古く、強迫症の発見は新しい。てんかんの発見は早く、妄想症の発見ははるかに遅い。これらが単に自然科学的発見であり、その遅速は単に自然科学的難易の差によるとしてよいであろうか。一つの「治療文化」の下位文化としての精神治療文化の特質に左右される部分がより大きい疑いは、ただちに湧き起るところである。

中井の記述は、精神医学史のもつ特有の問題点と困難性を見事に言い当てている。精神医学史というよりも精神医学そのものというべきかもしれない。端的にいえば精神医学はどこまで科学なのかと問わざるを得ない途上に現在もあるという事である。それにしても科学とは何だろう。私はこう書きながら、カール・R・ポパーがかって、フロイトの精神分析は反証困難だからマルクス主義と同様に科学ではないと断じたことに疑問を感じながら、自分ではうまい反論が浮かばなかったことを思い出していた。

中井によって偉大なパラダイム・メーカーと呼ばれた、フロイト(1856ー1939)とクレペリン(1856ー1926)は同じ年の生まれである。フロイトはウィーンのクリニックでもっぱら神経症患者の治療に当たり、精神病患者に接したことはなかった。一方逆にクレペリンは神経症患者ときちんと接することはなかった。また二人が直接出会うことはなかったようだ。
フロイトの神経症中心のパラダイムとクレペリンの精神病中心のパラダイムという二つのパラダイムがはじめから必ずしもうまく交り合うことなく、かみ合うことなく進行してきた。現在もその延長上にある。それは、われわれ精神科医が受けとめていかざるをえない歴史的な事情である。


クレペリン


フロイト
(二人の写真は、「精神医学の基本問題」内村裕之著、医学書院より借用した)

渡辺哲夫が最近「<精神病の発明>クレペリンの光と闇」(講談社選書メチエ、2023年8月)という著書を出版した。渡辺はその著書の「おわりに」のなかで、クレペリンとフロイト、この二人の努力によって、われわれを生かしてくれている現代精神医学の基準・地盤が発見された、創造された、と言っていい。だが、二人に対する世界の反応はまるで違っていた。フロイトは「無意識の発見者」として人類史上最大級の思想家とみなされた。新たなパラダイム革命者として、コペルニクスやダーウィンやアインシュタインに匹敵する革命的な存在、稀有のパイオニアとみなされてきた。……フロイトと比較するなら、クレペリンの名前とその仕事の意味は、知られていない。あるいは忘却の彼方に去ってしまった。と述べている。


忘却されたクレペリンが「無意識の発見者」フロイトと並び称せられるパラダイム・メーカーたり得るのは、クレペリンが「分裂病(と体系)の発明者」だからであると渡辺は述べている。発見でなく発明という表現の受けとめに私はいささかの違和感と躊躇を感じる。渡辺は発明という表現に関して、クレペリンの場合、「単一精神病学説」、「疾患単位学説」、「症候群学説」というそれ自体が人為的な特殊概念の媒介によって(学派に応じて異なって製作される精神医学概念の媒介によって)「早発性痴呆(精神分裂病、後に統合失調症と命名される)」と呼ばれる<精神病>が<発明>された、という経緯を無視できないからである、としている。

クレペリンが、早発性痴呆(精神分裂病)、躁うつ病(双極性障害)、癲癇性精神病という三大(あるいは癲癇性精神病を除いて二大)精神病の分類によって「疾患単位学説」に道筋をつけたとはいっても、「単一精神病学説」、「疾患単位学説」、「症候群学説」という三つの学説は、今なお十分な決着を見出せないままに揺れている。

確かに、精神病の分類は学派によって異なる人為的なものである。また精神病の症状のとらえ方も学派によって異なっている。さらに、やっかいな問題は、精神病の中心的な症状(典型)が時代とともに変化しているということである。渡辺はそのことを、中井久夫の最終講義を引用して述べている。

中井は自分が学生の頃は、慢性緊張病が分裂病(統合失調症)の典型でした、現在はそうではなくなっていて、分裂病の「典型」も時代とともに位置移動を起こし、論者とともに変わりました。この病を「早発性痴呆」と命名したクレペリンにとっては、典型は慢性緊張病に限らず一般にその末期の像でした。さらに「精神分裂病」の命名者である、オイゲン・ブロイラーにとっては、「陰性症状」といわれる状態を示す慢性患者が典型でした。また急性緊張病を典型と考えたのはサリヴァンやコンラートです。第二次大戦以後、抗精神病薬が導入されて、外来治療が中心となり、病状ははっきりしないものとなってきています。

以上のように述べる中井の指摘を受けて、渡辺は典型がどんどん位置移動を起こしているのは、ひょっとすると、人類の生存様式自体の変容に左右される問題なのかもしれないと述べている。そのうえで、或る疾患単位ないし或る症候群の「位置移動」が、移動前のそれらの疾患存在の消滅にならないとする保証はない。現代精神医学は、その足元から崩れていく、学問と実践の対象を見失う危険を覚悟しておくべきなのだろう。……われわれが常に、その都度既に<精神病>の発明あるいは制作の道を歩んで行くしかないこと、新たなパラダイムへの「途上」にある続けるしかないことは、宿命なのだろう。と渡辺は述べている。

渡辺が言うように、人間の精神を対象とする科学ないし学問に従事する者はその対象が時代とともに、あるいは社会の変動とともに揺れ動くことを、時にはその対象が消滅することを覚悟しなければならないということだろうと私も思う。このところ、統合失調症(早発性痴呆)と双極性障害(躁うつ病)という二大精神病分類を保持することで「新クレペリン主義」を自称するアメリカ精神医学会(APA)の診断基準DSMやWHOの診断基準ICDによる分類を通じて、精神医学の対象が不安定に揺れながらそのカテゴリーや概念が様々に変動していくという事態に精神科医は直面させられてきた。たとえば、クレペリンによって統合失調症(早発性痴呆)の下位分類に位置づけられた緊張病はDSM5でもICD11でも統合失調症から離れた独立したカテゴリーに分類されている。また広汎性発達障害の下位分類であったアスペルガー症候群は疾患基準からは消去された。ICD11には、愛する人を亡くしたことによる遷延性悲嘆症などが新たに加わっている。ICD11の日本語版は間もなく出版されて国の認定する精神疾患の診断基準として君臨するのだろう。しかし、この操作的で無機質な基準から精神医学の新たな理念や方向性が生まれてくるようには思えない。

精神医学の理念の方向性がどうあるべきなのかと考えたとき、クレペリンとフロイトが方向づけた基準点にまで戻って考えてみる必要があるのではないかと渡辺は言う。私もそう思う。私なりに今後の精神医学を考えてみるために、ここでは渡辺の著書を導きの糸として、クレペリンについてもう少し掘り下げてみたいと思う。それはクーンの言うパラダイムとしての最初の模範例に戻ってみることである。またクーンは嫌ったが、ハッキングがクーンの遺産と述べた社会学的科学論に一つの軸足を置いてみることで、精神医学の科学性が豊かなものとなり、中井がいう「典型」の位置移動を考察する方法を探ってみるきっかけが得られるかもしれないと私は個人的には思うのだが、クレペリンが生きていたら強く拒否するかもしれない。クレペリンの軸足はあくまでも当時の自然科学的パラダイムの上にあった。フロイトも基本的にはクレペリンと同じであるが、フロイトは一方で当時隆盛を誇っていた神秘主義的なパラダイムとの間で揺れ動いていた。

2.精神医学への出立

誕生と生い立ち、そして精神医学へ

(以下の記述は渡辺の著書に多くをおっている、また「分裂病の精神病理
13,飯田 真編の中の高野長英著、「クレペリンと早発性痴呆論」を参照した)

エミール・クレペリンは1856年2月15日、ベルリンの北方100キロメートルばかりのノイシュトレリッツ(第二次世界大戦後は東ドイツ領であった)に生まれた。父カールは文学好きの音楽教師でシェイクスピアなどを愛した。母は温かい性格で面倒見の良い女性であったので、少年エミールの家には人の出入りの絶えることがなかった。

1861年にエミールは町の小学校に入り、ついでギムナジウムに入学、1874年にライプツィヒで短期間の兵役に就くまで通学した。ギムナジウムの生徒としては平均的な成績で素行も普通の目立たない生徒だった。ギムナジウムでは、後に少年時代を無意味な語学だけに費やしたとクレペリンが嘆くような語学に偏した教育を受けていたようである。
1870年、セダンの戦いで、ナポレオン三世が捕虜になったというニュースが届いて、学校中に歓喜の声がこだました。夕方の大集会に特例的処置として教師とともに生徒も参加をゆるされた。14歳半のエミールにとってこの時が飲酒し酩酊した最初の体験となった。クレペリンの回想録には、年長者と交際すには酒を嗜むことは欠かせない義務であるという考えを、その後長い間抱いていたと書かれている。この普通に酒を飲める少年が、後年極端な禁酒主義者となったのはなぜかは、回想録を読む限り分からないと渡辺は述べている。ちなみに、当時の精神病院の患者は病院の提供を受けて、ドイツではビールをフランスではワインを比較的自由に飲むことが可能だったようだ。

エミールには8歳年長の兄カール・クレペリンがいた。兄は後に動物学者・植物学者となる。カールは自然科学的な才能が豊かで多くのことをエミールに教え、弟の知的好奇心を刺激した。エミールは15歳の時に、太陽系の起源をめぐるカント・ラプラスの「星雲説」で宇宙の進化発展を論じようとして、兄の友達たちにからかわれたというエピソードを持つ科学少年であった。

エミールは15歳の時に7歳年上の恋人イーナ・シュヴァーベと結婚の約束をする。結婚式は1884年10月4日の朝に挙行された。新郎は28歳、新婦は35歳になっていた。

ギムナジウムの高学年以来、クレペリンは父の友人の医師クリューガーと親しくなり。彼の診察に同席したり往診について行ったりした。またクリューガーの膨大な蔵書のなかから、ヴィルヘルム・ヴント(1832ー1920)の「人間と動物の心」という講義録に感動した。兄のカールもヴントを高く評価していた。エミールは兄の影響もうけて生涯にわたってヴントを尊敬し信頼した。
この頃はまるでフロイトのように夢を記述し夢の発生過程を研究するか、眼科研究を専攻するか、迷っていたが、クリューガーに相談した結果、心理学を研究しながら生計を立てられる精神科医師の道を進むことにした。

兵役の前半を終えたのち、1874年にエミールはライプツィヒ大学医学部に入学し、ついで翌年、ビュルツブルグ大学医学部に移籍した。クレペリン19歳の時である。その年に指導教官であった若き精神科私講師ヘルマン・エミングハウス(当時30歳)から出された課題に対してクレペリンは「急性疾患が精神病発生に及ぼす影響について」(チフスに罹って精神病になった一神学生に関する症例報告と考察の論文)を書いて提出した。それは医学部学生を対象とした懸賞論文として出されて懸賞をもらった。実際はクレペリン以外の論文提出がなかったようだ。

グッデン、ヴント、そしてフレクヒッシ

1876年、クレペリンは20歳になった。彼の敬愛するヴントが「生理学的心理学提要」を出版して、チューリッヒからライプツィヒ大学の教授に招聘されてきた。クレペリンは1877年の春、ヴュルツブルグ大学からライプツィヒ大学に戻り、ヴントの心理学ゼミナールに出席した。その体験を通じて、クレペリンは人間ヴントの偉大さと優しさに心底ほれ込んだ。

1877年21歳になったクレペリンは、リネカー教授の招きで、ヴュルツブルク精神科クリニック助手となり、平均50~60人の患者を担当した。しかし、入院患者の不潔と暴力、自殺、破瓜病患者の示す気味悪さなどでに悩まされ、ひどい幻滅と自信喪失、患者恐怖を味わった。

1878年22歳のとき、クレペリンは、ヴュルツブルク大学で医師国家試験と学位試験を通過し、四週間恋人と故郷で過ごした後、ミュンヘンの州立精神病院助手として勤務することにした。そこで担当した病棟Gの状況もやはりひどいもので、荒廃しながら常に激昂して見境のない暴力に走りがちな患者が住みついていて、そこを訪問する者はいつも突然の危険な攻撃に対して備えていなければならなかった。ヴュルツブルク精神科クリニックの時と同様にクレペリンの幻滅は深いものがあった。しかし、そこには憧れの偉大なるグッデン教授がいた。

ベルンハルト・フォン・グッテン教授(1824~1886)は当時54歳。頑丈で魁偉な容貌、稀有の天才を思わせる雰囲気にクレペリンは圧倒された。また事実的根拠だけが重要だとするグッテンの厳格な方法意識にもクレペリンは大きな影響を受けた。ヴントが母性的な師であったとすると、グッテンは厳父としての師であった。しかしながらそれは温情あふれる巨大な慈父のようでもあった。こうして若い医師クレペリンは幸運にも二人の優れた師に恵まれた。
二人の前では、クレペリンは明るい、活気と精力に満ちた青年になったようだし、雑談、談笑にも自然に溶け込んだようだ。しかし、クレペリンは後年、陰鬱で冷酷な研究の鬼として、決して親しみの持てる人物とは言えないという評価を周囲から受けている。クレペリンの複雑で矛盾に満ちた人物像については後で触れてみたいと思う。

1879年から1880年にかけて、クレペリンは故郷に戻り残り半分の兵役につき、学位論文を書き始めた。

1882年2月、26歳になったクレペリンはグッデン教授の承諾を得てパウル・エミール・フレクヒッシ(1847~1929)教授が主宰するライプニッツ大学精神医学教室に助手として転職した。着任早々からクレペリンには理由もわからないままフレクヒッシからの攻撃にさらされた。フレクヒッシは自分の留守の間この新任助手では代用が務まらないという取るに足らない理由を付けて4か月でクレペリンを罷免してしまった。さらに教授資格論文を提出する際にもフレクヒッシはしつこく担当官に「(クレペリン助手は)科学者としての能力に問題はないが就労態度が不真面目」という報告を提出してクレペリンの邪魔をした。さいわいグッテンやヴントのとりなしで資格取得審査を受けることができた。クレペリンは資格取得審査において、進行麻痺につて述べ、また「破瓜病は一つの特定疾患ではなく、発育期の特別な事情によって、鬱病または躁病が悪性の経過をとるようになった一病型である」と説明した。それは破瓜病を発見したヘッカーに同意した高い見識をを示すものであった。フレクヒッシに意地悪をされ始めた1882年ころから疾患単位学説の完成をみる「精神医学教科書 第六版」刊行まで約17年という歳月を要したが、愚痴をこぼすような記録はなく、クレペリンの「真理愛」(コッレ)は筋金いりである。

それにしても、フレクヒッシがなぜこのような態度をとったのか’。一つ考えられる出来事がある。1881年にフレクヒッシがライプツィヒ大学の教授に就任するための準備として、グッデン教授のところで短期間精神医学の研鑽を積んだ。そのさいに、彼はグッデン教授から見せられたスライド標本を無断で自分の論文に載せるという卑劣な窃盗をしてしまった。そのことをグッデンは長く恨むことはなかったが、フレクヒッシは自らの悪事を執拗に根に持って、逆恨みをするような卑劣な小人であった。そのために、フレクヒッシはグッデンのところから来た弱い立場のクレペリンに向かって攻撃を集中させることになったのだろうと渡辺は推測している。

フレクヒッシとシュレーバー著「ある神経病者の回顧録」

ここで、フレクヒッシを主治医として治療を受けたシュレーバー法学博士について簡単に触れておきたい。
シュレーバーは「心気症」で発症し、のちに重篤な幻覚妄想状態を示した。彼は1903年に「ある神経病者の回顧録」を出版し、同時に主治医であったフレクヒッシ教授の真意を糾すべく「公開状」を書いた。シュレーバーの著書は、日本語訳が渡辺哲夫訳で筑摩書房より出版されている。
シュレーバーとフレクヒッシ教授との出会いは1884年である。シュレーバーは「フレクヒッシの魂」による「シュレーバーの肉体を脱男性化する陰謀、淫売に貶めて凌辱し放置殺害する陰謀」を繰り返し糾弾している。そして「その場しのぎの嘘」(シュレーバー自身の表現)でシュレーバーを欺こうとした精神医学の素人フレクヒッシ教授への不信は根深い。シュレーバーの反応を妄想と切り捨ててしまうのは問題がありそうだ。渡辺はシュレーバーもクレペリンと同様に、フレクヒッシ教授の精神的包容力の欠如、劣等感と虚栄心、冷たさと卑劣さ、つまりは「底意地の悪さ」を感じていた可能性がある。と記している。シュレーバーとクレペリンは直接には出会っていないが、クレペリンの著書(教科書の第五版及び六版)をシュレーバーは熟読して初めてプロの精神医学を、自身の体験を知る基準として学んだ。

「ある神経病者の回顧録」は後にフロイトによって解読され、シュレーバーのフレクヒッシに対する同性愛願望が問題とされた(1911年、フロイト、「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析学的考察)。またフランスのラカンにもこの著書は影響を与えている。

結婚、グッデンとの死別

教授資格は得たが、ヴントの教室の助手の地位の空席もなく。無職無給医師となったクレペリンは気が進まなかったが、出版社からの依頼を受けて、「コンペンディウム・デル・プシキアトリー(精神医学概要)」を執筆し、1883年、27歳の時に出版した。これは「精神医学教科書」の第一版にあたる。当時の精神医学の学問的状況を含めて詳しくは後で触れることにしたい。

結婚を考えていたクレペリンは学会で知り合ったカールバウム(「緊張病」の著書がある)の病院に就職を依頼していたが、ヴントに「なぜ好んで一個人の奴隷になるのか」と止められて断念した。クレペリンは一時精神医学の道も断念して哲学講師への道を考えていた。しかし、グッテンに相談したところグッデンは「精神医学の道を行くべきだ」と明快に断じて、1883年の秋に、ミュンヘン州立病院の席を与えてくれた。さらに1884年の7月にシレジア(現在のポーランド南西部の地域)のロイブス精神病院に上級医師として転職。ようやく生活の安定したクレペリン(28歳)はイーナ(35歳)と結婚した。二人はクレペリン15歳の時に知り合い2年前に正式に婚約していた。

1885年、クレペリンはロイブスを離れてドレスデンの精神病院の上級医師となる。1886年の4月、クレペリン夫妻はドイツを去り、汽船に乗り、長時間のロシア鉄道の旅を経て、ドルバート(現在のエストニアのタルトゥ)大学教授に就任した。

1886年の7月、新妻をグッデン夫妻に紹介して、ドルバートでの生活について報告しようと休暇を取っていたクレペリン(30歳)は「ルートヴィヒ二世(41歳)と医師が’(六月十三日夕刻にシュタルンベルク湖畔散策に出掛けてから数時間後)ともに溺死体で発見された」という噂を聞き、すぐにグッデン教授(62歳)だと直感した。ミュンヘンにただちに向かい、グッデン未亡人を弔問した。未亡人は、グッデンが最後に分かれるときに「生きてか死んでか、いずれ帰ってくる」と言って出かけたことから「亡き夫は深刻な状況は知っていたらしかった」、とクレペリン夫妻に語ったという。この溺死事件の真相はいまだ不明のままである。この事件を題材に森鴎外が美しい作品「うたかたの記」を書いたことはよく知られたことである。
                           つづく













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