ビートルズとインド、それから・・・
先月ジョージの誕生日に「ジョージハリスンをひたすら愛でる」という行為を働きましたが、その魅力的なジョージが形作られる様を知るほどに、どんどんとインドに導かれ、今回は「ビートルズとインド」についてまとめる事にしました。
ここ最近ビートルズとインドに関する映像作品や書籍の発表がいくつかあり、整理しておきたいと思っていたテーマでもあったので、この機会に深掘りすることにしました。
主に参考にしたのは
・2022年に出版された書籍『インドとビートルズ シタール、ドラッグ&メディテーション』
・そしてその原書をベースに制作されたドキュメンタリー『ビートルズとインド』(原題は " The Beatles and India" 2021年イギリス)
・さらに2022年に劇場公開された映画『ミーティング・ザ・ビートルズ・インインド "Meeting The Beatles In India" 』
です。
わたしがビートルズを初めて知ったのは小学生の頃ですが、当時はアイドルなビートルズに夢中だったこともあり、個人的に "Revolver"くらいから少しずつ抵抗感なく受け入れるのが難しくなりました。
それは正に、ジョージを中心にビートルズがインドに興味関心を持ち始める時期と一致しています。
ジョンが『ストレスアルバム』と言い放った『ホワイトアルバム(The Bealtes : 1968年) 』も今では「なんてバラエティ豊かで贅沢な作品なんだ!」と思いますが、ポップでキュートなボーイズが大好きだった時期には「バラバラで統一感のない寄せ集めアルバムっぽいな」なんて感想を抱いていたような気がします。
仲良し4人組が崩壊していく様子も受け入れられませんでした。
今日は、そんなホワイトアルバムを生み出す原動力となったインドとビートルズにとことん向き合ってみたいと思います。
ビートルズとインド年表
まず、簡単にビートルズとインドの関わりについてざっくりと時系列で見ていきたいと思います。
ビートルズがまず最初にインドの文化や音楽を意識したのが1965年の彼らの2本目の主演映画 "HELP!" の撮影中のことでした。
インドレストランのシーンにインドのミュージシャンが出演しており、そこで見たインドの楽器シタールにジョージが興味を抱いた事が大いなる第一歩となりました。
その後、ビートルズはラーガロックを彼らの楽曲の中に取り入れるようになります。
同時期、ジョン、ジョージ、遅れてリンゴ、ポールはLSDの使用を初め、特にジョンはその幻覚体験にすっかり沼っていきます。
LSDによっていくつかの傑作が生まれますが、その副作用は酷いもので次第に彼の精神と肉体を蝕んでいきますが、後に出会うインドの超越瞑想体験がその代わりを果たすこととなります。
ジョージはインド音楽にすっかり夢中になり、ラヴィ・シャンカルの元でシタールの修行を始め、その間ジョージの作る音楽にはインドの影響が色濃く反映されています。
「アイドルからの脱却」、「ライブツアーの終了」とビートルズの音楽性やマネージャーのブライアン・エプスタイとビートルズの関係性にも変化が現れてくるのが1966年終わりから1967年です。
そしてその時期、ジョージの妻パティ・ボイドによってビートルズにインド哲学や瞑想が紹介され、西洋人の間で人気を誇っていたマハリシ・マヘシュ・ヨーギーのロンドンでの講和にジョン・ポール・ジョージが参加し大いに感銘を受け、リンゴも誘って彼らはすぐさま瞑想セミナーへ参加します。
しかし、彼らがマハリシと出会ったタイミングでマネージャーのブライアン・エプスタインが突然他界してしまいます。
その後、バンドのイニシアチブを握ったのがポールで、「ブライアン亡き後もビートルズの歩みは止めない」とマジカル・ミステリー・ツアー・プロジェクトを推し進めますが、残念ながら映画は酷評されてしまいます。
ポールの主導権に翳りが出たタイミングで満を辞してビートルズの4人は1968年の2月にインドへ超越瞑想の修行へ旅立ちます。
リンゴは1週間強、ポールは1ヶ月強、そしてジョンとジョージは2ヶ月ほどリシケシュのアシュラムに滞在し、瞑想修行をしながら楽曲の制作も行うなど充実していたリシケシュの滞在でしたが、マハリシとの最後の別れは苦々しいものとなります。
イギリスに帰国後、インドで書き溜めた楽曲で新しいアルバム制作を始めたビートルズでしたが、4人の向かう方向がバラバラになっていきます。リンゴがレコーディングの途中で一時期バンドを離脱するなど関係性に綻びが見え始め、その流れで1969年の年明け早々のゲット・バック・セッションに突入します。
1965年以前のインドとの関わり
ビートルズのメンバーの中でもっともインドな印象が強いのはジョージですが、彼は生まれる前からインド音楽に触れていたという情報もあります。
ジョージの母ルイーズは「妊娠中穏やかに過ごせるから」という理由で、ジョージがお腹にいる時に頻繁にインド音楽を聴いていたとアーノルド・グローブのご近所さんが証言しています。
もしかすると初めてジョージがインド音楽を聴いて「なんて素晴らしいんだ!」と思った背景には、母の胎教があったのかもしれません。
ビートルズとインドを結びつけるきっかけのひとつとなったジョージの妻のパティは、インド陸軍に従軍していた先祖が複数人いたという "インド繋がり" を持っていたようです。
他に、"HELP!" 以前のビートルズとインドの関わりというと、リンゴの前のドラマーのピート・ベストがインドで生まれた、ということくらいしか思い出せません。
というわけでビートルズとインドの距離が近づいたのは1965年。
そしてその関係が急速に深まったのは1967年〜68年ということになります。
映画"HELP!"とシタール
ではこれらのビートルズとインドの関わりのうち特に重要なポイントを掘り下げてみたいと思います。
まず、ビートルズ2作目の主演映画 "HELP!"とシタールについて。
この作品はこれでもかというインドに対するステレオタイプが詰め込まれたドタバタ映画で、「インド人が見たら非常に不快感を抱く内容だった」とドキュメンタリーの中でも説明されていましたが、その偏見たっぷりの映画の小道具として登場したシタールにジョージが一瞬で心を奪われるところから、ビートルズとインドのストーリーが始まります。
ちなみに "HELP!"は1作目 " A Hard Day's Night" と比較しても映画作品としてはちょっぴり残念感が否めませんが、ゴージャスなカラー作品であるため脂の乗った美しい4人を堪能できますし、ミュージックビデオ集として見ると非常に価値が高いと思っています。
撮影中彼らは常にラリっていたようですが、ひたすら楽しそうな4人が見られるのも推せるポイントです。
また撮影期間中、シタール以外にもビートルズがインドの文化に触れるきっかけがありました。
バハマで撮影を行なっているとき、突然ヨギが彼らに近づいてきてビートルズへ本を渡してきました。
それはイラスト入りのヨガの本で、その時は4人はそれにさほど注意を払っていませんでしたが、この出来事もビートルズとインドを結びつけるひとつの明確なサインだったのかも、と思わせられます。
シタールの果たした役割
さて、映画によってシタールと電撃的な出会いを果たしたジョージは、その後その神秘的な楽器を手に入れまずは独学で触ってみます。
そしてビートルズがアイドルからレコーディングアーティストへ以降していく過程での重要なアルバムとなる "Rubber Soul" に収録されている "Norwegian Wood (邦題:ノルウェーの森)" のレコーデイング時にジョンに依頼されジョージはそれっぽく・なんとかシタールを演奏します。
インドの演奏家が聞くと「一体なんの音?」と言われてしまうような仕上がりではありましたが、そのシタールはジョージが、ビートルズが、西洋の音楽と東洋の音楽を結びつけた非常に大きな第一歩となりました。
その後ジョージは、本人や周囲の人たちが「前世で繋がりがあったとしか思えない」と言うほど出会ってすぐに親密な関係となった『ワールドミュージックの生みの親』であるラヴィ・シャンカールのもとで本格的なシタールの修行を始めます。
そしてそのジョージのインド音楽への熱情は、ビートルズのアルバム "Revolver" や "Sgt. Peppers’s Lonely Hearts Club Band" の中で特異な輝きを放っています。
ジョージはその後、習得すればするほど奥が深いその楽器を極めることが難しいと自覚し、またラヴィに自分のルーツを思い出すよう促されたこともありシタールを弾くことをやめ、再びギターを手にしインド音楽を自分なりに消化した上で彼独自の楽曲を作り出していくことになります。
ジョージが楽曲の中でシタールを使ったことで世界中でシタールブームが起こるなど、ビートルズはロックとインド古典音楽の架け橋となったのでした。
マハリシとの出会いとエプスタインとの別れ
ビートルズの活動を追っていると「これはフィクションでは?」と思うようなビートルズ・マジック的な奇跡に触れることがよくあります。
ビートルズとインドが接近したときにもまさにそのようなことが起こりました。
1967年8月。ジョージ・ジョン・ポールはロンドンのヒルトンホテルでマハリシの講演を聞き大いに感銘を受け、この日参加できなかったリンゴも誘って翌日すぐさまマハリシに誘われるがまま北ウェールズへ瞑想を学びに出かけます。
この勢いと行動力に、ビートルズがどれだけマハリシに一瞬で心を奪われたかが見て取れます。
マハリシの講演に参加することや瞑想学校に出かけることはマネージャーのブライアン・エプスタインにも報告済みでしたが、会場となるバンガーまでは4人と彼らのパートナー単独で、公共交通機関で移動しています。
マネージャーもローディも伴わず自分たちだけで電車に乗るなんてことは、この時期のビートルズにとってはまるで異例のことでした。
そんな状況だったこともあり、彼らが出発するユーストン駅は大混乱となりビートルズたちは群衆にもみくちゃにされ、ジョンの妻シンシアはたったひとり駅に置き去りにされてしまいます。
結局彼女はニール・アスピノールに車で送り届けられ無事合流を果たすのですが、ジョンの心が既にシンシアから離れてしまっていることを象徴するような悲劇のシーンです。
そしてバンガーでビートルズはマハリシから非常に意義深い超越瞑想について学び、充足感を味わっていたところに、信じられない知らせが届きます。
ブライアンエプスタインが亡くなったのです。
数年前から精神が不安定となり自殺未遂や入退院を繰り返していたブライアンは、ライブツアーをやめたビートルズに対してもはやイニシアチブを握ることができず、彼らに見放されてしまうのではないか、彼らとの契約が更新されないのではないかという不安でアルコールとドラッグ漬けになっていたといいます。
ビートルズが新たな導きを求めてマハリシからそれぞれマントラを授けられ、彼らが当時日常的に摂取していたドラッグを諦めると決意してから24時間経たないうちに、彼らを地下から引き上げ世界のトップスターに仕立て上げたブライアンがこの世から消えました。
その信じられないようなタイミングとシチュエーションについて、ジョージの妻で、ビートルズとインドを結びつける重要な役割を担ったパティは回想しています。
パティほどいかないまでも、受け入れ難い衝撃を前にビートルズの4人がマハリシに対して何らかの期待を抱いていたことは想像に固くありません。
彼らはマハリシに慰めと導きを求め、マハリシのやり方がどうであれ、この時、ジョン・ポール・ジョージ・リンゴが彼の言葉と彼から教わった瞑想で気持ちを落ち着かせることができたのは紛れもない事実です。
この時、バンガーにはミック・ジャガーと彼のガールフレンドのマリアンヌ・フェイスフルも同行していましたが、マリアンヌはこの時のマハリシの言動を「死を軽率に扱い、自分がブライアンに代わって彼らの父になろうとする姿勢が見られて不謹慎だ」と批判しています。
いずれにしても、ビートルズに世話を焼き、尻拭いをしながら彼らの進むべき道を切り開き、トップスターに導いた友人であり父親的存在でもあった尊敬できるマネージャーの肉体は死にました。
そしてその後、ビートルズの舵取りを誰が行うかという非常にセンシティブな問題に前のめりで切り込んできたのが ポールでした。
ビートルズはブライアンの死がなければすぐにリシケシュにあるマハリシのアシュラムへ瞑想修行に向かう予定でしたが、想定外の事態にメンバーの心持ちやパワーバランスが崩れポール発案のマジカル・ミステリー・ツアーの制作に着手することが最優先事項となり、インド行きは延期されることとなります。
リシケシュでの超越瞑想修行
マジカル・ミステリー・ツアーの映画やアルバムの制作により何度か延期されたビートルズのインドでの瞑想修行でしたが、遂に1968年2月に実現します。
まず第一陣として、おそらく彼らの歴史の中で二人の仲がもっとも良かった時期ではないかと思えるジョージとジョンが、パティとシンシアと一緒にロンドンからデリー空港へと旅立ちます。
そして少し遅れてポールとリンゴが、ジェーンとモーリーンを伴ってインドへやってきます。
リンゴの苦悩
リンゴは食事が合わなかったこと、モーリーンが蝿に耐えらなかったこと、加えて幼い子供に会いたいという理由で二人は1週間ちょっとでイギリスに帰ってしまうのですが、ロンドンからリシケシュに向かう道のりもなかなかハードだったようです。
まず、先発のジョン・ジョージの出発時と異なりかなり多くのメディアが空港に大挙しもみくちゃにされた。
そして渡航前に予防接種を受けた腕がインドについた直後にバキバキに腫れた。
さらに、リンゴが乗った車がリシケシュに向かう途中でオーバーヒートした。
など、リシケシュに行き着くまでも、アシュラムに無事到着してからもなかなかの試練を次々に受けるリンゴについては、ぜひ本で読んで「タフだな!」と称えてあげてください。
そんなリンゴもその効果を認めている超越瞑想はビートルズ4人全員にとってとても良い影響をもたらします。
それぞれの動機と目的
面白いのはビートルズは4人そろってリシケシュに向かい時間を共にしましたが、それぞれのアシュラムへ滞在する動機や目的が異なっていたということです。
ビートルズのインド担当とも言えるジョージは、純粋に瞑想を極め、自分自身と向き合い本当の自分を知るための時間にしようと思っていました。
ジョンはとにかく生きていることが辛く、救いや分かり易い解を求めてマハリシの元へ向かいました。
ポールにとってのアシュラム滞在はバカンスでした。たまには世間から切り離されて非日常をゆっくりと味わおうと思っていました。
そしてリンゴは、ビートルズへの忠誠心と「とりあえず何でもやってみよう」という愛すべきチャレンジャー精神が彼をインドに向かわせました。
もちろんここまで明確に4人のベクトルがまったく違う方を向いていたわけではなくグラデーションがあるとは思いますが、単純化するとこれくらい異なっていたんじゃないかと妄想します。
リンゴは1週間と少しでインドを離れ、続いてポールが1ヶ月強の滞在の後イギリスへ帰国しますが、それは訪問前から構想していた期間で、そこできっちり帰るポールはやっぱりポールだな、と思います。
1日5時間とか8時間とか瞑想していたようですが、ロンドンのような娯楽もなくアルコールやタバコなどの嗜好品は隠れて飲んだり吸ったりしていたとはいえ一応禁止されていたため、とにかく時間が有り余っています。
そこで自然とジョンとポールは曲作りを初め、リシケシュ滞在中にビートルズは多く見積もって40曲もの楽曲を作った、なんて言われています。
駆り立てられることも大量の視線に覗き見られることもなく、また、ドノヴァンやマイク・ラブ、ポール・ホーンなど素晴らしいアーティストとの出会いと交流もあり、特にジョンとポールの創作のパワーは非常に大きくなっていました。
ジョンはテレビ番組のシナリオまで考えてみたり、ポールは『アンブレラ』というニューアルバムの構想を練ってみたりと非常にクリエイティブになっていましたが、そんな2人に対してジョージは「次のアルバム制作のためにここにきたんじゃない。僕たちは瞑想に来たんだ」と怒りを露わにしたと言います。
ここにジョージの本気と真面目さを見るとともに、ジョンとポールはやはり根っからの音楽人なんだなと感じます。
このあたりのすれ違いはピーター・ジャクソン監督のドキュメンタリー『ザ・ビートルズ・ゲットバック : The Beatles : Get Back 』の会話の中にも見られました。
「インドにいた時のぼくたちは、もっとありのままの自分でいるべきだった」というポールに対し、ジョージは「冗談だろ?インドへは自分自身を見つけるために行ったはずだ」と返し、「それで、俺たちは自分自身を見つけたよな?」というジョンには「もし見つけたんなら、今僕らはこんな風なはずじゃない」と返答しています。(著者要約)
ここの解釈はちょっと難しくて前後の文脈も含めてまだ理解しきれていないのですが、ジョージの気持ちを想像すると、1年前インドにまで出向いて瞑想を会得しても、結局 "I me mine" なエゴのぶつかり合いを今ももっと酷いレベルでやっていて、"Isn’t it a pity" だ、、と感じていたのかもしれないと思ったりします。
およそ2ヶ月リシケシュに滞在していたジョンとジョージは、穏やかに過ごしていたアシュラムの日々を全否定するような酷い形でマハリシの元を去ることとなります。
この「結局最後に何が起こったのか?」ということについてはこの後まとめたいと思いますが、ブライアン・エプスタインの死後、心の平静を求めよりどころとしていたマハリシとビートルズの別れは非常に後味の悪いものとなりました。
心身の健康を取り戻し、音楽の制作意欲も湧き、新たな気持ちでバンド活動を再開できるかと思えたビートルズでしたが、その後のホワイトアルバム制作、そしてゲット・バック・セッションと、4人の間に生まれた溝は年月を重ねるとともにどんどん深まっていきます。
でも救いなのは、ジョンもポールもジョージもリンゴも、「瞑想は自分にとってとても役に立つもので学べて良かったし、インドから戻っても続けている」と語っていたこと。
そして、ジョンが後に「僕の人生でとりわけ幸福だったのはインドで過ごした時間だ。この上なく純粋で全てバランスが取れていた」と振り返っていたことです。
インドへ経つ前 "HELP!" の頃から誰かに助けを求めるほど追い詰められ、ドラッグでボロボロになっていたジョンの精神と肉体は、インドの空気や瞑想、ゆったりと流れる時間で徐々に健康を取り戻し、以前を知る人は、彼の顔色はとてもよくなっていたと語っています。
インド滞在中も不眠に悩まされたり "I’m So Tired" や "Yer Blues" の楽曲に垣間見える希死念慮さえ抱くこともあったジョンでしたが、たまたまアシュラムでビートルズに出会い彼らと交流した『ミーティング・ザ・ビートルズ・イン・インド』の監督ポール・サルツマンのエピソードからは、それまでのサーカスのような狂った日々から解放され何に追われることもなく、静かに自分と向き合うことのできているジョンやジョージの姿を思い描くことができます。
それは彼が撮影した 素顔のビートルズの写真からも滲み出ていると感じます。
失恋を乗り越えるためにリシケシュにやって来てたまたまビートルズと出会ったサルツマンが、同じく瞑想を学ぶひとりの人間としてのビートルたちと交わした会話は、当然マスコミの前で尖ったユーモアを展開するビートルズのメンバーのそれとはまったく趣が異なり、非常に興味深いです。
そして何より私たちは、彼らがインドに滞在したことによりホワイトアルバムという名盤を手にすることが叶いました。
もし、彼らがリシケシュを訪れていなかったらビートルズの音楽はどうなっていたのか。
もし、ブライアン・エプスタインが他界することなくビートルズと一緒にリシケシュを訪れていたら彼らのその後の活動はどうなっていたのか。
妄想家として突き詰めていきたい What if もいくつもあります。
アシュラムで最後に何が起きたのか?
ものすごい磁力で惹きつけられ最終的に4人揃ってインドで超越瞑想をしたビートルズでしたが、一時は「ビートルズの精神的なグル」とまで言われたマハリシとの別れは、あまりにもあっけなく後味のよくないものでした。
軽くビートルズのエピソードを拾うと、そこにはだいたい「マハリシがミア・ファローに言い寄っていた」とか「修行者たちに菜食や禁欲を求めるマハリシ自身が鶏肉を食べていたり、女性に性的なアプローチをした」というようなことが書かれています。
そして、「マハリシも結局は俗物だったということに気づいたビートルズが彼に見切りをつけて突然アシュラムを後にした」というような結論になっていることが多いはずです。
この雑なまとめはある部分では正しく、しかし、完全に間違っているとも言えます。
結局この離別に至る過程もグラデーションで、多くの物事と同じでいくつもの理由が重層的に絡み合い「これが原因だ」と何かひとつの出来事で説明できるわけではありません。
それでも、今回わたしが大きな原因になったことをひとつあげるとしたら、それは「アレクシス・マルダスである」とキッパリ言いきれ(言い切り)ます。
ビートルズをお好きな方はこの名前を聞いたことがあるかと思いますが、「マジック・アレックス」と呼ばれたこのギリシャ人は、ゲット・バックのドキュメンタリーの中でもビートルズに失笑と迷惑を提供する人物として登場しています。
アラン・クラインなど、ビートルズに強烈なマイナスのインパクトを与える人物を引き込んでくるのはジョンの専売特許ですが、このマジック・アレックスもジョンが連れてきた胡散臭い若者です。
彼のことをこれ以上語るとあまり楽しい話ができなさそうなので、私の中で「ありえない!」と思う数々のエピソードについては封印しますが、アレックスが突然アシュラムにやってきてから空気が大きく変わったと言えるでしょう。
アレックスはエレクトロニクス分野について "無知だけど興味を持っている" ジョンを相手に、およそ実現不可能な大きなことを言うことによって生活を成り立たせていたため、ビートルズがスピリチュアルな世界にどっぷり浸かり自分への興味を失ってしまうことは、彼にとって死活問題でした。
また、ヨーコに会いたくてたまらなくなっていたジョンがアレックスをインドへ呼んだという説もあり、いずれにしてもアレックスにとって、ビートルズを、特にジョンをマハリシや瞑想の世界から切り離すことは、彼にとって非常に重要なミッションでした。
彼らを取り戻すためにはどんなことでもする!くらいの気概でインドへやってきたのです。
アレックスはハマリシのことを「ビートルズを騙す詐欺師のようだ」と思っていたようですが、わたしに言わせると「どの口が言ってんの?」と言う感じです。
ビートルズを取り返したいアレックスは、手っ取り早くマハリシを追い詰めるため「マハリシは禁欲的な人間などでは全くない」という虚偽の事実を捏造し「黒魔術だ!一生ここに閉じ込められる!」などと捲し立て、追い立てるようにしてジョン・ジョージ・シンシア・パティをアシュラムから引き摺り出したとパティは語っています。
結局、その離別から何年も経ったのちジョージは自ら証拠を集め、マハリシがその件に関しては潔白であったこと、つまりマジックアレックスが如何にしてでっちあげたかを突き止め、晩年のマハリシに会いに行っています。
「謝罪に来ました」というジョージに「何を?」と聞き返したマハリシは、「ビートルズは地上に降りた天使で、彼らは何も罪を犯してはいないと信じている」と言い、ジョージは「あのような形でリシケシュを離れた罪がやっと清められた」と語っています。
そしてジョージ以外の3人も、時間の経過とともにマハリシに対して好意的な発言をしており、ポールも後に子供たちを連れてマハリシに会いに行っています。
ジョンとジョージの心の動き
では、なぜジョンとジョージは一方的なアレックスの主張に従いアシュラムを離れたのか?
その理由のひとつには「マハリシが自分たちを利用している」という気持ちが大きくなったことが挙げられるのではないかと思います。
インドに滞在する前から勝手にビートルズが出演する映像作品を企画して警戒されていたマハリシですが、主に西洋の富裕層を相手に超越瞑想を広めていたマハリシにとって、ビートルズの存在は間違いなく理想的な広告塔だったでしょう。
その後も自らのレコードの帯に「ビートルズの精神的なグル」と書いてみたり、ビートルズの預かり知らないところで映画制作の企画を進めた上に複数の会社と契約を結びトラブルを起こしたりと、ジョージやジョンの中で「自分たちは瞑想しにやってきているのに、なぜ彼は勝手にあんな俗っぽいことをしているんだ」という気持ちが募っていったことは、彼らのマハリシに対する不信感に繋がったはずです。
あとこれは超個人的な妄想の域を出ませんが「マハリシに真実を教えてもらおう、救ってもらおう」と本気で思っていたジョンが、マハリシは神ではないし、そんなショートカットみたいな方法はないんだと徐々に気づき始めると同時にヨーコへの想いが募り、単純にロンドンへ早く帰りたいという気持ちが強くなったということも、ジョンがジョージを引っ張ってアシュラムを退去した理由のひとつなんじゃないかと思います。
実際ロンドンへ戻る飛行機の中で、シンシアはジョンからそれまでの彼のすべての不貞を一方的に聞かされ続け、ジョンはその時点でシンシアとの離別を強く意識していたのではないかと想像でき、彼女が気の毒でなりません。
ちょっと話が脱線しましたが、「なぜ彼らはあんな形でリシケシュを後にしたか?」という疑問については、当事者であるパティも「何があったのか(何十年経った)今もわからない」というようなことを語っているくらいで、結局はよくあるジョンの心変わりなんじゃないの?なんて思ってしまいそうにもなりますが、ジョージはそんな不本意な瞑想修行との離別の後もインドと決別する気はなく、一生掛けて情熱を注ぎ続けました。
ビートルズがインドに与えたもの
ジョージに限らずビートルズがインドから得たものはたくさんありますが、一方でビートルズがインドにもたらしたものは何だったでしょうか。
ビートルズは、映画 "HELP!" で描かれたステレオタイプに加え、マハリシの主張する「インド人は怠け者」というステレオタイプにも晒されながらも、特にジョージは自らがインドへ入り込んでいくことで本当のインドの姿や魅力を体感し、世間に伝えていく役割を果たしています。
ドキュメンタリーの中で、あるインド人の俳優は「ビートルズの音楽は新しく、彼らは60年代という時代の象徴、新しい生き方の象徴だった」と語っています。
インドの若者は自国の文化に反発することがあり、しかしある時、あのビートルズが自分たちの国に憧れ訪れていたことに気づきます。
ビートルズは、インド人が "ビートルズ" を通してインドの文化や精神を見ることにより、自国の魅力に出会い直すチャンスを与えているのではないかと思います。
まとめ
今回映画や書籍を通して、様々な角度から細かいエピソードや当時のインドやビートルズの空気感をたくさん知ることができました。
リシケシュ滞在中の芳醇なミュージシャンたちとの交流や、中でもドノヴァンの存在感の大きさ、マル・エヴァンスやニール・アスピノールの(毎度ながらの)頑張り、そしてジョンポールジョージリンゴそれぞれの心の動きなど、初めて知ることも多数ありました。
他にも、アシュラムに登場するまさかのCIAにKGB、相変わらず政治利用されそうになるビートルズ、アシュラムで彼らの世話係を務めたナンシーと、バンガロー・ビルのモデルとなったその息子、そして、謎に包まれたマハリシが歩んだ軌跡や、彼がなぜ西洋人にもてはやされるグルとなり得たのか?などなど、これまで深掘りすることのなかった部分にぐっと近づくことができました。
ホワイトアルバムのあの楽曲はインドでどんな風に生まれたのか。
ビートルズとさまざまなインドの音楽家たちがどんなきっかけで出会い、交流を深めたか。
ビートルズのメンバー間、そしてそれぞれのメンバーとそのパートナーとの関係性がインド訪問前後でどう変化したのか。
など、まだまだ紹介しきれていない興味深い話が無数にあります。
もしこの記事を読んでビートルズとインドについてもっと知りたいと思われましたら、ぜひ映像や書籍にも触れてみてください。
きっと知らなかったビートルズの姿に何度も出会うことができると思います。
わたしもビートルズとインドについてより深く知ることで、ホワイトアルバムの聞こえ方が変わりました。
そしていつか、ビートルズが超越瞑想に励んだ(!?)リシケシュの地を踏みたいと強く思います。
▼同じ内容のYouTube動画もあります。