アカシアの花…イギリス人金髪女性と駆け落ち結婚、セントルイスの万博の実態、そしてエジプトの「最後ドラゴマン」〜トーマス・クックシリーズ⑭
2008年以前にエジプト観光をしたことがあるお方。
アブデル・ハキーム・アウィアンさんに会ったことがある方はいないでしょうか?
彼は2008年に亡くなる直前まで、エジプトで観光ガイドをしていた人物で、最後のドラゴマンでした。
アブデル・ハキーム・アウィアンは1926 年 1 月 26 日、ギザの端に位置するナズレット・エル・サマン村で生まれました。 82 年間の人生の間、ギザの三大ピラミッドの建つ砂漠一帯は彼の遊び場であり、
「ピラミッド周辺は自分の手の甲のように、何もかも知り尽くしていた」
8歳のとき、ギザ・ピラミッドエリアで、ハーバード大学のジョージ・レイズナー博士とボストン美術館によって考古学発掘が開始されることになりました。
そのためにまず周辺の瓦礫撤去作業が行なわれることに。当時は三大ピラミッド周辺には瓦礫が山ほどあったため、遺跡発掘の邪魔だったのです。
この瓦礫撤去作業員募集を知り、子どもだったハキーム少年は日当目当てに手を上げ、参加をしました。
レイズナー博士はすぐに少年が「特別」であることに気がつきました。
ずっとピラミッド周辺を駆け回って遊んで育っていただけあってピラミッドに熟知しているし、物覚えと要領が良く、それでいて作業が丁寧。性格も素直で茶目っ気もあります。
レイズナー博士は少年を自分の指導下に置き、当時の基本的な考古学を教え非常に可愛がりました。
すっかり考古学に夢中になったハキームは、この分野で学術的なキャリアを追求することを決意。
十代になると、資格も取得しドラゴマンとして働き始め、留学費をこつこつ貯めました。
第二次世界大戦後、裕福な叔父の援助もあり、ファード王大学(現在のカイロ大学)に入学。そこでエジプト学と考古学の二重の学位を取得。
在学中にドラゴマンの資格を取り、バイトとしてトーマス・クック社でドラゴマンの仕事もしながら勉学を続けました。
大学を卒業する1952年。
この年、革命がおき、新しいエジプト政府による「ツアーガイド」の第一回目の国家試験が実施されました。
ところで、ドラゴマンと観光ガイドの違いは、おそらく前者はオスマン帝国の名の下の資格で、オスマントルコ語も話せなければならず、定義も幅広く、社会的地位の高い難易度のある外交通訳から、商談通訳、観光ガイドまで含まれていました。
しかし後者はエジプト共和国の観光ガイドのみを指し、もはやオスマントルコ語は不要で、アラビア語ともう一つ何か外国語の取得が必須。そしてエジプト国内範囲のみのの歴史と観光の知識が必要。
エジプト新政権による第一回観光ガイドライセンス国家試験に受かったガイドは 100 人で、その大半がもともとドラゴマンの資格を持っていたベテランだったといいます。
ハキームは合格した100人のうちの一人になりました。取得した観光ガイドのライセン番号は 56 番です。
1960 年代に入ると、ようやくどうにか貯まった資金で、長年の夢だったオランダのライデン大学で考古学の研究に従事しました。
82歳で亡くなる直前まで観光ガイドをし続けましたが、骨の髄まで砂漠や遺跡の観光案内が好きでした。天職でした。
そして死ぬまで、自身のことを「ガイド」とは呼ばず「ドラゴマン」と言い続けていました。
周囲が「ラストドラゴマン」と呼んでくるのも、受け入れていました。「ラスト・ドラゴマン」であることを心底誇りに感じていたようです。
オスマン帝国が生んだドラゴマン
オスマン帝国のスルタンの名の下で生まれた「ドラゴマン」または「トルクマン」という用語(以下、ドラゴマン)は、トルコを中心とする、広範囲の地域で知られ、主に第一次世界大戦まで活躍していました。
ちなみに、オスマン帝国やオスマン帝国エジプト領のエリート層はオスマン・トルコ語とアラビア語、ファルシー語、ペルシャ語を話していました。
しかし実のところ、そのオスマン・トルコ語はアラビア語、ペルシア語、トルコ語の語彙と文法で構成されているのですが、機能的ではない不便な言語でした。
というのは、アラビア文字で書かれたオスマントルコ語は複数の音を表すことができ、文字の形は単語内の位置に応じて変化するのですが、オスマン・トルコ語バージョンのアラビア文字では母音は示されないことがよくあり、複雑になっていたからです。
例えば、オスマントルコ語では文字 「و」(VAV) は子音「v」を意味するだけでなく、母音「o」、「u」、「ö」、「ü」も表します。
個人的に日本語にちょっと似ていると思います。「ラ」をアルファベットで表記するのに「RA」「LA」両方、「ス」は「SU」「THU」両方。よって正しいアルファベットの発音を日本語で表現できません。
これは大いに問題なのに、長年放置され、日本語による外国語表記の改良が一向にされていません。
オスマン・トルコ語もこれに似たような問題を抱えており、むしろ日本語より酷かった。
そのため、アルメニア人やユダヤ人などの非イスラム教徒は独自のアルファベットを使うことを好み、コミュニケーションをスムーズに捗っていました。
オスマン帝国では1850年代に電信が生まれましたが、オスマントルコ語を使用するとややこしい問題が生じ混乱をきたすため、電信のやり取りは最初からラテン語オンリーにし、モールス信号も同様でした。
このような言語事情もあったため、余計にドラゴマン(通訳や翻訳)の需要は高く、しかしその大半はギリシャ人で占められました。理由は2つあります。
一つはギリシャ人は外国語の習得ならびに通訳のスキルに長けていたこと。(多分、今のギリシャ人とは違うんでしょうね…)
その二はトルコ人のムスリムたちは非ムスリムの言語を学び、話すことに抵抗を示したからです。
彼らは機能性が悪い言語でも、アラビア文字でペルシャ語なども取り入れたオスマントルコ語が一流の言語であると、プライドが高かった。二流三流の外国語を学びたくなかった。
エジプトのドラゴマン
しかし、エジプトではまるでドラゴマン事情が違いました。
まず、こちらではクリスチャンの言語を学ぶことに抵抗を覚えるムスリムはほとんどいませんでした。外国語への柔軟性が違ったのです。これは興味深い観点です。
その結果、エジプトではムスリムのドラゴマンが大勢誕生しました。
オスマン帝国がクリスチャンのギリシャ人やアルメニア人をドラゴマンに用いたように、コプト(エジプトのクリスチャン)をドラゴマンにするということにも一切なりませんでした。
さてさて。
どかんときたエジプトにおけるドラゴマンブームは、トーマス・クック旅行社が入ってきた時です。ナイルクルージング並びにパレスチナ聖地パッケージツアーが大ヒット。
「ドラゴマンがいくらいても足りない」
カイロのドラゴマンたちはてんてこ舞いです。スーダンのハルツームから、パレスチナのエルサレムまで駆り出され、多忙を極めました。
エジプトのドラゴマンはイスラム教だけでなくユダヤ教とキリスト教にも精通しており、ツアー客を案内できるすべての遺跡と歴史を知っていましたが、いかんせん五千年以上の歴史があるせいで、エジプト国内だけでもその量は膨大なのに、スーダンやパレスチナまでの知識も必要です。
なぜ、エジプトのドラゴマンたちがそんな広範囲に渡り観光案内をしていたかといえば、トーマス・クックツアーが登場し始めた頃、未開発の地であったスーダンとパレスチナには現地ドラゴマンがいなかったからです。
蛇足ですが、民主主義国になって間もない旧社会主義の東欧も同じような状況だったので、トーマス・クック社に言われて私もチェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、ウクライナ、ユーゴスラビア…すべてガイドをしていました。超大変でした。「あんちょこ」を移動中に必死に見ながら頑張りました。
それはさておき、「ドラゴマン」という言葉は、今日ではほとんどの人に馴染みがありませんが、19 世紀から20世紀初頭には、繰り返すと中東を訪れる観光客にドラゴマンを持たない人は皆無で、当時の危険な中東旅行には欠かせない存在でした。
シリア人正教徒ドラゴマンとイギリス人観光客女性の恋
1900年代初期
トーマス・クック社専属だったシリア人正教徒ドラゴマン、ナジブ・ガゼットはいつものようにエルサレム含むパレスチナ地方周遊の観光案内をしていました。
前々から、30歳の浅黒い顔のガゼットへの評価はいつも可もなければ不可もなしといったところなのですが、今回のイギリス人ツアー客たちはどうにもこうにも不快でなりません。
彼がツアーグループの前で顎でポーターたちをこき使っているだとうか、大声でわめきちらかし、自分たち客に向かっても横柄だとか、はたまた安ぽいラム酒を飲みながら観光案内をしているだとか、そんなことはとっては取るに足りない些細な不満です。
もともと教養の高く、素晴らしいスキルが求められるドラゴマンが自身の客に対してもふんぞり返っているなど、よく聞く話でしたし。
ところが、問題はグループのメンバーの一人、23歳の金髪の女性、エセル・トーマスに対するガゼルの態度でした。
パレスチナの強烈に眩しい太陽の下、歴史や文化を雄弁に語りながらも、ひたすらラム酒を片手に持ちぐびぐび飲みほどしながら、ずっとなめまわすようにエセルばかりを見つめているのです。
贔屓も甚だしく、説明をそっちのけでエセルにべったりくっついていたり、二人でどこかへ姿を消してしまい、そのまま戻って来ないなど、説明がおろそかで仕事がいい加減です。あまりにも怠慢です。
当然ですが、ツアー客全員そしてトーマス夫婦…エセルの両親が一番ムカムカし、トーマス・クック社に苦情を出してドラゴマンを交替させました。
ところがです。ガゼットが去ることになると、なんとなんと。
エセルまでもが離団し、彼と一緒にツアーグループを去って行ってしまいました。残された両親は唖然です。
その後、パレスチナを発つ日の直前にエセルが戻って来て、両親は胸を撫で下ろすものの、よくよく見るとシリア人ドラゴマンのガゼットまでついて来ていました。
ぎょっとしました。よくおめおめと顔を出せたものだと呆れて怒っていると、いきなり
「お嬢さんと結婚したい」
無論、エセルの父親は拒否をし、半ば強引に娘を連れて予定通り故郷のヨークへ戻ります。
「やれやれ」
両親はやっと心底安心しました。が、甘かった。
娘のエセルとシリア人ドラゴマンのガゼットは密かにアメリカ駆け落ちを既に計画していました。
セントルイス世界万博の聖墳墓教会での挙式
1904 年、セントルイス市はルイジアナ買収 100 周年を祝い、アメリカ文明の成果を世界に紹介するために大博覧会を開催しました。
このセントルイス万国博覧会には、世界中から 2,000 万人近くの来場者が集まり、1,200 エーカーの土地にある 1,500 以上の建物に展示されたテクノロジー、芸術、農業、産業の驚異に驚嘆しました。
トーマス・クック旅行社もエジプトとパレスチナのパビリオンを出しました。
そのため、トーマス・クック社のアラブ人のドラゴマンたちも、通訳や案内係として渡米することになりました。合計何人だったのかは不明ですが、ガゼットもそのうちの一人で、彼は万博でのエルサレム館の案内が担当でした。
驚くのは、その彼の横にはぴったりと金髪のイギリス人女性がくっついていたことです。エセルです。
実は、ガゼッドはセントルイスの万博会場に到着する前に、先にニューヨークでエセルと落ち合っていました。
二人は計画通り、ニューヨークで再会を果たした後、一緒にブルックリンにあるギリシャ教会へ駆け込み、シロ・アラブ人のハワウィニ大司教に結婚の相談をします。
すると大司教はかけおち婚を思いとどまらせるではなく、
「セントルイスの世界万博で挙式を挙げるのがいい。協力しよう」
と無責任な(!)助言をし実際、力になりました。全然エセルの親の気持ちなど無視です。
そうして、二人の結婚式はセントルイスの万国博覧会の開催中、「エルサレム」展示にある、本物に見立てた聖墳墓教会で行われました。
もちろん、司教はブルックリンから駆けつけた聖ラファエル・ハワウィーニーです。
ガゼットとエセルのラブストーリーは
「ロマンチックな事件。応援しよう」
と既に話題を呼んでいたため、全然知らない人々も彼らの挙式に出席しました。しかも場所は万博会場ですし…。
その参列者たちはそれぞれの民族衣装を身に着けており、挙式場はまさに「色彩の海」でした。
頭に赤いタルブーシュをかぶった、流れるような絹のローブを着たトルコ人たち、シリア人は金の刺繍を施したジャケットと十分な大きさのズボンを着ていました。
それに厳粛な顔つきのユダヤ人と、サハラ砂漠出身の、真っ黒に日焼けしたアラブ首長などが、新郎新婦の幸せを称えるために集まって来ていました。
1904 年の人間動物園The Human Zoo of 1904
二人の挙式はひとまず置いておいて…
セントルイス世界万博では、数々のまばゆいばかりのアトラクションが設けられ用意されました。ちなみに岡倉天心が講演を行ったりもしています。
しかし万博のアトランタの中には不快でおぞましいものもありました。人間動物園(the human zoo)です。
博覧会の主催者はさまざまな地域や国から2,000 人以上の先住民族( indigenous people)を博覧会会場に集め、「生きた展示」を手配しました。
上の写真は フィリピン居留地の教師である ウィルキンス夫人がイゴロットの少年に ケークウォークを教えているところです。
ケークウォークとは黒人の間で生まれた、軽快なリズムに合わせてステップを踏む歩き方ですが、ウォークそのものは問題ありません。
問題は、あえて少年を原始的な人間のように演じさせたことです。
最大かつ最も人気のある展示物の 1 つは、47 エーカーを占め、さまざまな民族グループからの 1,000 人を超えるフィリピン先住民が収容されていたフィリピン居留地です。
この居留地は、1898 年の米西戦争後に米国が獲得したフィリピンにおける米国の植民地支配の利益を示すことを目的として設計されました。
フィリピン人は再現した伝統的な村に住み、古風な衣装を着て、昔ながらの踊りや儀式を行い、さらには見物人たちの前で犬を屠殺し、犬を食べることさえも日課としている光景を、この万博見本市で繰り広げるように強制されました。
その上、この居留地では、フィリピン反乱軍とアメリカ兵の間の模擬戦闘も行われ、数千人の命が失われた現在進行中の米比戦争を再現しました。
この戦いの再現で言いたかったのは
「野蛮な反逆者のフィリピン人は、優れたアメリカ軍による鎮静が必要だ」
という演出でした。
来場者はアメリカ軍を応援し、公演中に負傷したり死亡したフィリピン人にはブーイングや拍手をするよう奨励されていました。
好奇心と研究の対象として人間を展示する展示会のもう 1 つのセクションは、芸術宮殿の近くにあった人類セクションでした。
この部門の責任者は
「人類は知性、道徳性、進歩に応じてランク付けすべき」
と信じていた著名な民族学者である WJ マギーでした。
彼は、異なる大陸から来たいくつかの先住民族のグループを、進化の想定段階を反映した再構成された環境で展示できるように手配しました。
これらのグループには、アルゼンチンのパタゴニアン、日本のアイヌ、フィリピンのイゴロット、アリゾナのアパッチ、ワイオミングのアラパホ、アフリカのピグミーが含まれていました。
人類セクションで見世物にされた彼らは、観客を楽しませるために原始的なやり方による工芸品作りや、石器時代のようなゲーム、おどおどしい儀式を実演することが期待され、観客は彼らを軽蔑したり哀れみの目で見物しました。
実のところ、これらの展示は決して特殊なものではありませんでした。
19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけて、ヨーロッパとアメリカ中の博覧会、博物館、サーカス、動物園、その他の会場で非白人を珍品や標本として展示する傾向は当然だったからです。
こういった展示は、世界中の何百万人もの人々に対する植民地主義、奴隷制、大量虐殺、人種隔離、差別を正当化する人種差別主義と帝国主義のイデオロギーを反映し、強化するものでした。
多くの場合、白人のアメリカ人を文明の階層の頂点に置き、他の民族に対する彼らの支配を正当化する人種差別主義的および帝国主義的な仮定に基づいていました。世界万博にも、こういった歴史の側面があったのです。
セントルイス万博の娯楽エリアーThe Pike
パイクは来場者が乗り物、ゲーム、ショー、屋台、土産物を見つけることができる博覧会の娯楽エリアに付けられた名前です。
ここは最もセンセーショナルで、搾取的な人間の展示物がいくつか展示されていた場所でもありました。
そのうちの 1 つは「Darkest Africa」と呼ばれるもので、さまざまな部族から約 100 人のアフリカ人が模擬ジャングルの設定で展示されていました。
彼らはライオン、ゾウ、キリン、ワニなどのエキゾチックな動物に囲まれており、アフリカの土地イコール野生の原始の土地のような錯覚を加えました。
パイクに関するもう 1 つの展示は「カイロの街路」と呼ばれるもので、約 200 人のアラブ人とエジプト人がダンス、音楽、曲芸、蛇使い、その他西洋の観客の東洋主義的空想に訴えかける行為を披露しました。
トーマス・クック社がエジプトコーナーとパレスチナコーナーを手掛けたのは間違いないのですが、果たしてこの「カイロの街路」もクック社によるものだったのかどうかは不明です。
いずれにせよ、「カイロの街路」での最大の目玉は、挑発的な動きと衣装で話題を呼んだベリーダンサーでした。
1904年のセントルイス万博における、エジプトのベリーダンス公開はアメリカにおける初のベリーダンスショーで、これが大反響を呼び、のちにアメリカで大流行したフーチー・クーチー・ダンスの発祥の元となりました。
セントルイス万博でのドラゴマンとイギリス人女性の挙式
さて、トーマス・クック社のシリア人正教徒ドラゴマンのナジブ・ガゼット(30)と、イギリスのヨークからやって来た金髪のエセル・トーマス(22)はセントルイスへ向うと、大司教の指示通り、そこで挙式の準備を始めました。
結婚式の前日、新郎の友人たちは彼を最寄りの浴場に連れて行き、徹底的に体をこすり洗いし、花嫁介添人候補者も女性専用の浴場で花嫁に同じことをしました。
挙式当日、花嫁エセルと彼女の唯一の介添人のシャビナートは白い衣装を着ましたが、それが新郎から贈られたものかどうか、分かりません。
ガゼルは中産階級に属し、大した富の所有者ではありませんが本来は、シリアでは花嫁に衣装を用意する負担は新郎にあります…。
他には新郎は花嫁に少なくとも20着のシルクドレス、10個の金または銀のネックレス、ダイヤモンドのイヤリング、ブローチを送らねばなりません。ガゼルの場合はこれも果たしてどうだったのでしょう。
挙式では従来のブライダルベールの代わりに、白い帽子をかぶった花嫁が行列を先導し、新郎と花婿付き添い人(シャビン)がそれに続きました。
(この頃の)シリアの一般的な礼拝では、花婿の付添人が花婿を担ぎ、花嫁の上に高く新郎を空中に持ち上げるのが習慣となっていますが、それも行なわれました。
新郎を空中に高く上げるのには意味があり、家庭内において夫の方が妻より地位が高いんだという、誇示を意味しています。
挙式会場では花のお香で焚かれ、ゲストたちは絵を描れたワックスキャンドルを手にし、教会の半薄暗い中で光が揺れ、それはキャンドルの灯りの踊りのように見えました。
新郎新婦も芸術的に装飾された2本のキャンドルを持ち、大きくそれを振りました。
そして、司祭はカップルにあらゆる種類の質問をたくさん投げかけました。たとえば花嫁に
「愛情を持って忍耐強くあらゆる浮き沈みに耐え、主であり主人に対して常に忠実であることを約束しますか?」
または新郎には
「妻に快適な家を提供し、常に妻に親切にすることを約束しますか?」
礼拝中には、深い賛辞を伴う詠唱がいくつも歌われました。アラビア語です。長くて退屈ですが、絵のように壮大なギリシャ式の結婚式の儀式です。
後半、司祭は永遠の結合を象徴する細い鎖でつながれた 2 つの銀の指輪をカップルに差し出しました。そして鎖を切断すると、金の結婚指輪の交換となり、二人の指それぞれにはめられました。
その後、新郎新婦はひざまずいたまま同じ杯から聖酒を飲み、犠牲のパンを食べました。これは命の血の結合を意味し、パンは肉を表します。
最後に一杯の水を飲みますが、これはすべての不純物が洗い流されることを象徴しています。
挙式がようやく終わり、新郎新婦が万博パビリオンに建てられたレプリカの聖墳墓教会から出て来ると、銀のクラリネットが凱旋行進曲が奏でられ、新婚の二人は、大金を争う群衆にニッケルやボンボンを投げつけました。
引き出物ですが、アメリカではバターナイフ、ピクルス皿、さまざまな品物が新郎新婦に贈られますが、この二人の場合は祝い金でした。
また、ゲスト全員への引き出物としては、石鹸 2 個が配られました。石鹸を配るのも当時のシリア正教会の伝統的なイベントで、親戚や友人が多い場合、山ほどの数の石鹸を用意しておかねばなりませんでした。
結婚した翌日、新郎が花嫁幻滅した場合(具体的に言うと、花嫁が処女でないのが発覚したなど)、翌日には花嫁を放棄することができます。
しかし花嫁を捨てる場合、新郎は彼女に別の夫と再婚できるように十分な手段や金銭を提供しなければなりません。
また、シリアでは新居を用意せず、嫁が夫の一族の家に入らねばならない習慣があるため、花嫁は常に義母の服従しなければなりませんでした。これは、ほとんどの東洋諸国に蔓延している家父長制、あるいはむしろ母系制の支配の生き残りです。
ガゼットとエセルのかけおち結婚式は翌日のワシントンの新聞に載り、紹介されました。
親に反対されたイギリスの娘が、シリア人のドラゴマンと駆け落ち同然でセントルイス万博で、アラブ式正教会の挙式を挙げたというのが珍しかったからです。
華やかな挙式が終わった後も、新婚夫婦はそのままセントルイスに逗まりました。というのはナジブ・ガザルがトーマス・クックによりドラゴマンとして雇用されているため、その博覧会が終了するまで仕事をしなければならなかったからです。
万博自体が終了すると、ようやく夫婦は新婚旅行のためイギリスのリヴァプールへ向かい、そこからルカニア号に乗りかえて出航し、1904年5月1日にエリス島に到着しました。
そして再びアメリカに戻り、二人ともアメリカ人に帰化、1910年までブルックリンに住み、1920年にサンフランシスコへ引っ越し、1930年にはデトロイトに移り、夫婦にはジョージという子供が 1 人生まれています。
二度とレバント地方に戻ることはなかったようですが、それで良かったのかもしれません。なぜなら、いずれにせよパレスチナではアラブ人ドラゴマンを存続するのが難しくなっていっていたからです。 ユダヤ人の台頭です。
イスラエル初の旅行会社創立「エルサレムのガイドはユダヤ人を使って下さい」
オスマン帝国の滅亡とユダヤ人の台頭により、パレスチナではすぐにドラゴマンは消えていきました。
1926年、ソロモン ディーゼンハウスという名前のポーランド人移民がイスラエル最古の旅行会社となるディーゼンハウス(Diesenhaus )をテルアビブに設立しました。
ディーゼンハウス旅行会社はイスラエルの旅行業界の主導的勢力となり、何度か所有者を変え、個人経営から公開会社や持株会社へと変更ています。
そして他の企業と合併しながらもその名前を残し、依然としてイスラエル市場の最前線でトップブランドとして君臨し続けました。
かたや1928年。
クック氏の孫のアーネスト・クックはトーマス・クック旅行社を突然売却しました。世界恐慌の前年でした。ものすごいタイミングです。まるで事前に世界恐慌が起こるのを分かっていたかのようです。
トーマス・クックパレスチナ支社の総支配人がフリーメイソンメンバーであることもあり、「やはり予め情報をキャッチしていたんじゃないかな?」という疑惑を捨てきれません。
1930年代の半ばになると、パレスチナのツーリズムの様子は大きく変わりました。
シオニスト情報局が(新経営者の)トーマス・クック社にあることを持ちかけたからです。
「ツアー客、特にユダヤ人観光客を案内する際には、ユダヤ人のツアーガイドを使ってください。それにユダヤ人の史跡や名所をすべてのツアー旅程に含めて、観光客全員に案内するようにしてください」
そうして、新クック旅行社は聖地パレスチナツアーに、ユダヤ教色を取り入れた最初の旅行会社となり、アラブ人のドラゴマンには観光案内の仕事が回って来なくなりました。だから、セントルイス万博で結婚式を挙げたガゼットはアメリカに移住していて正解でした。
しばらくすると、観光ガイドの資格試験はユダヤ人がコントロールするようになり、今でも、アラブ人に(パレスチナ人)観光ガイドの免許が発行されることはほとんど皆無だといいます。
きっとそれは事実だと思います。というのは私はエルサレムでアラブ人の土産屋を見ていますが、アラブ人のライセンス観光ガイドに会った記憶がないからです。
20世紀初頭までは、エルサレムを含むパレスチナではアラブ人ドラゴマンだらけだった以前を思い出すと、あまりの変化です。
1948年にイスラエルが正式に建国されると、イスラエルは最初からツーリズムに力を入れ、観光大国を目指しました。すでにトーマス・クックがその地盤を築いていたので、非常にスムーズにいき、やりやすかったのは言うまでもありません。
その後のイスラエルのツーリズム化は実際に目覚ましい発展があり、砂漠しかなかった土地にヘルスツーリズム(死海などでの静養プラン)、ワイナリーを巡るツアー、農業体験ツアー(キブツ含む)、国立公園、ショッピングなどなど、次々に魅力的な観光をたくさん作り上げました。
最後のドラゴマン
第一次大戦以降ー
オスマン帝国の生滅でドラゴマンは消滅しました。
ところが、帝国の領土の一つだったエジプトのドラゴマンたちだけは、消えませんでした。
前述通り、もともとエジプトでは外国語を学び話すことに積極的である傾向があり、さらに自国の長い歴史への誇りも強く、観光業に対する畏怖の念も強かった。
よってドラゴマン制度を産み出したオスマン帝国が滅亡しようと、エジプトだけではドラゴマンの肩書は残り続けたのです。
前述のように、1952年のエジプト革命後、ドラゴマンから観光ガイドに名称は変わり、ドラゴマンの資格所有者たちも改めて国家試験を受け直しさせられていますが、
それでもドラゴマンはそれ以降もドラゴマンと呼ばれ続けられました。いわゆる観光ガイドの肩書よりも、ドラゴマンの肩書を持つ古いガイドたちは一目置かれる存在であり続けました。
最後のドラゴマンであるアブデル・ハキーム・アウィアンは亡くなる直前までガイドをし続けました。もっとも流石に最後までトーマス・クック旅行社の専属だったわけではありません。
ハキームが尊敬されていたのは、何も単に「ラスト・ドラゴマン」だったというだけではありません。 彼は少なくとも 7 つの言語に堪能で、古代象形文字を誰よりもよく知っていました。
それに、ガイドの仕事以外でも、プライベートにおいても生涯エジプト中を旅し、多くのものを見てきました。他のガイドとの決定的な違いです。
また、彼のユニークな能力は科学、考古学、エジプト学の学術的知識と、形而上学と神秘主義の深い理解と知識を組み合わせて、独自の思想を交えて考えて左脳右脳の両方から物事を考え、それをツアー客に教えることでした。これはとても評判でした。
よって、続々とヨーロッパ人観光客から名指しでリクエストが上がっていました。
ハキムは 2008 年にこの世を去りましたが、彼流の言い方で例えるなら
「別次元に移動した」。
太陽の船に乗り、別次元へ移動した彼の深い知恵と教えは今後も言い伝えられていくのに違いありません。
余談ですが、90年代、日本の某エジプト特集番組にハキームさんを紹介したいと私は企画書を出したこともありましたが、だめだと却下されています。吉村先生でなければ、ということでした。
もしあの時、了承してもらえていたら、日本のテレビ番組にまだ元気でご存命だったハキームさんが出演し、貴重な話をたくさん聞かせてもらえていたでしょうね…。
古いドラゴマンのライセンスも、エジプト共和国観光ガイドライセンス56番のナンバーも見せてもらえたかもしれません。残念です。
それはそうと、もう終わり終わり、と言い続けなかなか終わらないトーマス・クックシリーズ。
フリーメイソン、オスマン帝国ハミド2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、そしてイスラエル建国の父ヘルツルに、トーマス・クックと日本…。あともう少し!
つづく
↓こちらは、もう一人のエジプト人ドラゴマンのタイタニック号乗船物語記事です。
下記は、ドラゴマン側の視点でその実態を書いた唯一の本「From Khartoum to Jerusalem: The Dragoman Solomon Negima and his Clients (1885–1933)」です。読みたいのですが、Kindle版で7000円越えです。考えてしまいます…。
↓オスマン帝国からトルコ共和国へ移る時に、トルコのスウェーデン大使館で通訳をしていた、オスマン帝国最後のドラゴマンの自伝。価格は1万円以上です。
参照
https://forgottenfiles.substack.com/p/the-human-zoo-of-1904
https://www.historytoday.com/archive/feature/here-be-dragomans
https://adeptexpeditions.com/abdel-hakim-awyan-the-last-of-the-dragoman/
https://orthodoxhistory.org/2012/09/26/an-antiochian-wedding-at-the-st-louis-worlds-fair-2/
https://newlinesmag.com/essays/how-turkey-replaced-the-ottoman-language/