聖地パレスチナツアーからトラベラーズチェックが誕生しました〜トーマス・クックシリーズ ④
「パレスチナツアーを正式に売り出す前に、現地の状況を調べるために自ら現地に下見に行くぞ。1868年クリスマス、俺はエルサレムで過ごすぞ〜!」
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今回、トーマス・クックのパレスチナ(聖地)ツアー編は力を入れた!ので前編後編に分けました。面白いと思います。トラベラーズチェック誕生のきっかけも「なるほど💡」ですので、ぜひ旅行好きの方は読んでいただけると、嬉しいです。ボンボヤージュ🐪⛺🏜
前回↓
注意:
1クリスチャンにとってHoly land=Palestineで、そこにエルサレムも含まれます。
2 トーマス・クックが初聖地ツアーを出した1869年、パレスチナもエジプトもオスマン帝国の「州」(領土)でした。よって帝国が口を挟んできています。
元宣教師トーマス・クック、聖地ツアー企画に燃える
1867年、トーマス・クック氏はパレスチナ(聖地)ツアー販売を思い立ち、まずは下見のため、自ら手配を自分でしました。分かりませんが、元宣教師のクックは聖地ツアーを出すことが目標で、外国旅行手配を始めたのかもしれません。
「私が現地で入手すべき情報はー」
クックは出発前に以下を書き上げます。
1パレスチナに滞在するのに最適な時期
2最高の旅行施設(*観光施設、博物館などを指している?)
3最高のホテル宿泊施設
4雇える最高のガイド(*ドラゴマンのことですが、後で触れます)
5訪れるべき最も興味深い場所
6イギリス往復の旅程、
7女性も聖地ツアーに参加できそうかどうかの確認
クックは初のエジプトツアー(1869年)の時にはここまでやっていません。力の入れ方が違います。
そうして実際にクリスマスの時期に聖地へ下見へ足を運び、以上の7点を全て自分で確認。またかかる経費も自分で計算しました。今なら現地のランドオペレーターにやらせる仕事ですが、ランドオペレーターなんぞ存在していないので、クックが自分で全て調べたわけです。
その結果、
「2 か月にわたるツアー全体の費用は、およそ 100 ポンドの見積もりになるな」
この100(英)ポンドが現代だといくらなのか、調べました。
14,917.22ポンド(約285万円)です。
感覚的には今の400万円ぐらいなのかもしれません。でも例え285万円だとしても確かに大衆にとっては払えない金額です。しかも夫婦で参加したら約600万円…。ブルジョアジーの下っ端のポケットでは無理、手が届きません。
「こりゃあ、本来目指している大衆向けパッケージツアー旅行社の商品としては、どうだろうか」
クックは悩みますが、しかし聖地への想いが熱かったのか、
「聖地ツアー、出してやる」。
ところで
「えっ?なんでそんなに旅費が高いの?」
そう思われた方はもう少し先をお読みください。
聖地パレスチナツアーの募集
聖地に行きたい人のほとんどは、クックス・エクスカーショニスト新聞に広告が掲載されている「募集中ツアー」を見て申し込んでいました。
聖地パレスチナツアーもこれに掲載したのですが、 顧客のさまざまな「財布のサイズ」に対応するために、さまざまな聖地パッケージツアーを販売しました。
例えば、もっとも短い聖地ツアーは20〜30日間でした。ルートはヤッファからガザ地区、ベールシェバ、エルサレムを往復し、死海とエリコ付近を往復し、その後サマリア、ナザレ、カナ、ティベリア湖、ダマスカス、バールバック、ベイルートへ。ラバやラクダ、馬が移動手段と考えると多分、結構忙しいかも。
別のルートとしては、ベイルートから出発し、シドン、ティルス、ハイファ、ヤッファを経由して海岸を下り、そこからツアーを再開するというものでした。
余談ですが、個人的に気になったのは、お客さんはちゃんと集合時間に毎回遅刻しなかったのかな?と。その辺の記録は見当たりませんでしたが、まだ1グループ10人とかだったので問題なかったのかもしれません。イタリア人やスペイン人ツアーはどうだったのだろう…。
1873 年後半にはクックは死海を迂回し、トランスヨルダンを通ってティベリア湖を経由してダマスカスに向かう、モアブとハウランへの新しいルートを追加しています。
エジプトのムハンマド・アリのおかげで!
聖地へ訪れる「観光客」及び「巡礼者」はいつから出現していたのでしょう?
答えです。2世紀にはすでにキリスト教巡礼者たちがパレスチナを訪れています。彼ら西洋人はイエスの宣教と受難に関連した場所を発見したり、出エジプトの経路をたどったり、あるいは他の聖書の出来事の現場に立ったりしています。
19 世紀にはさらに多くの西洋人旅行者が同じ志を持ってパレスチナを訪れました。しかし、これが非常に「賭け」でした。
当時、ここは地理的にはパレスチナとして知られる、ムスリムのオスマントルコ帝国の僻地でした。帝国はこの地を重要視しておらず、放置状態だったので、まあ荒れて荒れて、何もかもが酷い。だから聖地へ行くのはサバイバル、命がけでした。
余談ですがカイロもオスマン帝国の支配に入る前のマムルーク朝の時の方が栄え貿易も盛んになり素晴らしい建築物も建てられています。ところがオスマン帝国の傘下に入った途端、田舎に成り下がっていました。
聖地旅行の何が命がけだったのか、具体的に言うとアラブの盗賊、感染症や風土病のリスク、雇用主を誘拐しようとする可能性のある信頼できないガイド(観光ガイドが誘拐犯!)、さらには地図に載っていない危険な地形の多くの地域が含まれてたからです。よって、西洋人は危険を承知で、命がけで訪れざるをえなかった。
あ、「今でも危険じゃん…」 というのは心の中の囁きにしておきましょう…。
1831年になると、エジプトのムハンマド・アリ総督により、パレスチナへの旅がかなり改善されます。
上記の地図を見ると、シリアが「Lost in 1841」になっていますが、それまではシリアがエジプトのムハンマドアリのテリトリーでした。第一次オスマン帝国=エジプト戦争に事実上の勝利を上げ、シリアを帝国から奪ったのです。
なお、ムハンマド・アリについては、ぜひ「エジプトの狂想」をお読みください。これまでの真面目な偉人伝とは異なり、彼のクセのある性格、狡猾さ、そして彼のハーレムについても描きました。
それに第一夫人アミーナ夫人(←名前を見つけるだけでも大変でした!)、そして息子たち(←これも大変、母親達を探すのも大変、みんな国籍が異なるばらばらの母親達だし、、、、)との関係も描きました。
ここまでアリと彼の家族を調べ夫婦の揉め事まで書いたのは私ぐらいだと思います!ああどれだけ「渡る鬼は世間ばかり」の視点での記録探しの旅に苦労したか、何度躓いたか、、、よろしくお願いします🙏。
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オスマン帝国からシリアの土地を奪っていたアリは、なんとシリアの交通インフラと通信インフラの整備に着手。
彼は西側のクリスチャン、特にフランスとは非常にいい関係を築いていたことと、そしておそらく大エジプト帝国の構想があったはずなので、その一環もあったのではないかと思います。さすが「エジプト近代化の父」です。(ハーレムでも多くの子供の「父」になっていますが)
とにかく、アリのおかげで聖地まで多少行き易くなり、観光化&巡礼者(キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ人)は増加。新幹線開通で苗場スキー場が繁盛したのと同じです。
トーマス・クックの初めての聖地ツアー
ところで、忘れないうちに。今さらですが、トーマス・クック そして後に息子のジョン・クックが加わり、会社名はトーマス・クック&「サン」になっていますが、めんどくさいのでこのシリーズでは「トーマス・クック」の名前で通しますね。
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トーマス・クック旅行社は「行ってみたいけど危険な聖地の観光化」に大いに貢献しました。より安全で計画されたグループツアーを設定したのが、大正解。
昔、日本で個人旅行が流行りだした時に、某日本の旅行社もイラクだがクウェートの軍事施設をまわるツアーを出しました。
「パッケージツアー」はダサい、と馬鹿にされ出した頃でしたが、しかしこのツアーはわりと集客していました。やはり行きづらく危険な方面はパッケージツアーが安心…。
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1869 年に、トーマス・クック氏は自ら率先して10 人の旅行者を率いて最初の「エジプトと聖地(パレスチナ)ツアーを行いました。ずっと同行したのが「ドラゴマン」(次に触れます)で、いわゆる今で言う「スルーガイド」(全行程付添ガイド)の先駆者です。
ドラゴマンの他にグループに同行したのは軍の護衛、ラクダとラバの群れ、大勢の使用人(*詳細は見当たりませんでしたが、私の想像では地理やサバイバルに長けたベドウィンじゃないかと思います)でした。
その使用人たちは東洋風の絨毯、銅製のベッド、ブリキの浴槽、緑の植物、ダイニングチェア、ダマスク織のテーブル、人数分の睡眠用テント、そして彼らの必要を満たすのに十分な食料(英国から輸入され西洋人の好みに合わせた食料)を運びました。
さきほどの「なぜツアー料金が約280万円もかかるのか?」の答えがこれです。これだけ同行者ら(トーマス・クック氏の旅費代も含む)がいたらツアー費用も高額になります。
お金のことはさておき、クックはこの初聖地ツアーの体験について次のように書いています。
「私たちの最初の夜はアジェロンの谷で過ごしました…床は七面鳥の絨毯で覆われていました。鉄製の寝台が私たち一人一人(テントに女性 3 人)に用意されており、清潔なシーツと毛布が用意されていました。
その日の行程を終えた夕方、私たちはスープ、魚、肉、家禽の定食を楽しみました。それは30日間続き、ほぼ毎日どこか新鮮な場所にテントを張りました。」
クックのツアー客は「快適なキャンプで楽しかった」と感想を述べています。ナイル川のダハビーヤ50日ツアーなら私は嫌ですが、これは参加してみたいかも!
中東の翻訳(通訳)ガイドードラゴマン
ところでドラゴマン(ドルジェンとも呼んだはず…)を「通訳ガイド」と書きましたが、いわゆる一般的な通訳ガイドとは思わないでください。
中東・地中海に存在したドラゴマンは通訳ガイドの仕事をしていたのは間違いないのですが、彼らはオスマントルコ語、アラビア語、ペルシャ語の三ヵ語に堪能ではならず、そしてプラスαヨーロッパの何かしらの言語を必ず喋れなければなりませんでした。
その上、外国の文化の知識にも長けている必要がある外交及び領事館と繋がった公式な通訳ガイドで、非常に地位の高い仕事でした。
私の想像ですが、エジプトでは外国語を話す旅行ガイドの地位が高いのは、ひょっとしたらこのドラゴマンの歴史の流れを受け継いでいるせいなのかもしれません。
オスマン帝国時代はドラゴマンの多くはコンスタンティノープルのファロス出身の(ユダヤ系)ギリシャ人でした。
なぜなら、この仕事はまずムスリムであってはならなかった。西洋のあれこれの情報を持ち込んでもらいたくない、ムスリムが異教徒の国の言葉を話文化を学ぶのを良しとしなかった。よって最初から異教徒が抜擢されていました。
また(ユダヤ系)ギリシャ人は語学の才能に長けた人種だったからです。彼らは地中海、黒海、大西洋、インド洋での交易の場での翻訳(通訳)としても大活躍。
ところが1820年代にギリシャがオスマン帝国から独立すると、彼らは解雇状態になり、急遽アルメニア人のドラゴマンたちに仕事が回されます。
しかしアルメニア人のドラゴマンは「レベルが低い」と、あまり重宝されず、交渉を成立させないわ、トラブルを解決させないわ、おまけに基本である誤訳も多かった。
そこでギリシャとは関係のないユダヤ人がどしどしドラゴマンに採用されました。実際彼らは語学の才能い長けて優秀でした。このように中東はユダヤ人に通訳翻訳、交渉、文化の橋渡し全てを頼っていきます。
いわゆる「翻訳者」を指す中東の言語は複数存在し、例えば同時翻訳者と翻訳者、同時通訳者と通訳者の概念が違うので、名称も異なります。ところが日本語は翻訳者を指す言葉は翻訳者しかありません。
これは何千年も他国の異なる言語と関係を持ってきた、もしくは時代時代で、異なる外国語の支配者に占領されることを続けてきた中東諸国ならではの歴史背景のせいなのかもしれません。
ナポレオン・ボナパルトも1798年にエジプトを支配した時、やはりドラゴマンをお抱えで持っていました。西洋人ドラゴマンたちが「アラビアン・ナイト」も「コーラン」なども翻訳していっています。
トーマス・クックは毎回顔なじみのドラゴマンたちを自分のツアーに同行させガイドをお願いしていました。気が利いて安心で信頼ができて、そして現地(観光地)に顔が利く。
例えば入場できないスポットにも入場させられる人脈やつても持っている。こういうドラゴマンをおさえたのも、ツアー人気の理由の一つになりました。
ラテン語、ロンバルド語、スペイン語、ソルブ語(ドイツ)、ギリシャ語、トルコ語、優れたアラビア語、これら全部を話すドラゴマンもパレスチナにはいたそうで、びっくりです。
こうしてトラベラーズチェックが誕生した!
まだまだ高額だったとはいえトーマス・クックの「エジプトと聖地ツアー」は
「危険な聖地を安心して旅できる上、個人で行くより安い」
と空前の大ヒットを飛ばし、1869 年から 1883 年にかけて、クックは なんと4,500 人の旅行者をパレスチナに送り込みました。
チャーター便も飛んでいなければ大型観光バスのない時代に、これはものすごい数です。トーマス・クックツアーによってそこに訪れた人数は、これは西側諸国から到着する観光客の総数の3分の2、同国を訪れる英国と米国の観光客全体の5分の4に相当しました。
つまり聖地にやってきた西洋人のほとんど全員がトーマス・クック旅行社のお客さんだったというわけです。
これだけばんばんツアーを出せば、現地の盗人に目をつけられます。それを分かっていたクックはまず、ドラゴマンも決して盗難一味とは繋がりのない人選を、と非常に慎重かつ個別に選びました。
そして、ツアー客がほとんどすべての料金をイギリスを出る前に払っておく、彼らが現地で支払うことがないようにという前払いにし、おかげで盗難のリスクが軽減されました。
それだけではありません。
ホテルや食事のクーポンを使用することで価格が標準化され、最後にトーマス・クックは、旅行者が現金を持ち歩かなくても現地通貨を入手できる「クック回覧板」こと、のちのトラベラーズチェックを導入しました。
そう、ここで初めてホテルクーポン、ミールクーポンそしてトラベラーズチェックが誕生したのです。あまり知られていませんが、危険地聖地ツアーに多額の現金を持って行くのは危険だということで、これらが生まれました。
私が初めて親の同行なしでヨーロッパに行ったのが16歳のときでしたが、「日本人はジプシーに狙われ危ない」と言われ、ほとんど全額T/Cで用意していきました。
T/Cの番号が分かっていれば盗難にあってもお金が戻ってくると言われ、実際盗難に遭いましたが、確か手数料とか云々で1/3ぐらいしか返金されなかった気がします。
クーポン、トラベラーズチェックに続き、しばしば危険を伴う不衛生であまり信頼のできない地元の食べ物を提供する代わりに、クック社は観光客にイングリッシュハムとヨークシャーベーコンの缶詰、リバプール産のサーモンとイワシの缶詰を提供し始めました。
それだけ聖地でお腹をくだすツアー客が続出したからじゃないかと思います。でなければわざわざ重い缶詰をそんなに事前に用意しておかないでしょうね…。
輸送に関してはクックは質の高い馬やラバの、強盗と繋がりのない所有者(ベドウィンかな?)と直接交渉し、契約を結びました。これも現地旅行先でのバス会社と契約を結ぶ現在の旅行社のやり方と同じです。
なお、アラブの鞍は非常に居心地が悪く快適ではなかったため、クックはイギリスの鞍をベドウィン(?)に提供し、「こっちを馬やラバに装着してくれ」と依頼し、ここで聖地にイギリス製の鞍を導入させています。
聖地ツアーが軌道に乗り順調だったある日ー
フランスのカトリック巡礼グループからイギリスのトーマス・クック社に連絡が入ります。
「1000人のカトリック巡礼者の聖地ツアーを依頼したいんだが」
百日戦争から約440年…カトリックのフランスがバプテスト宣教師だったイギリス人にまさかの聖地巡礼ツアー依頼を!!!!!!
つづく
「世界初のエジプトパッケージツアー物語・トーマス・クック ④〜聖地・パレスチナツアーからトラベラーズチェックが誕生しました(聖地ツアー後編)」では、
バプテストで元宣教師トーマス・クックは十字軍以来の西ヨーロッパからパレスチナへの最大の巡礼にあたるカトリックのフランス人1000人を聖地へ案内、さらにクックはドイツの最後の国王のエルサレム入城ツアーも行います!
つづく
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