スエズ運河は流れる② - 忘却と追憶..アレキサンドリアのギリシャ人
↑前
エジプト人の日本語ガイドの、ワイル(仮名)がモロッコ添乗をしてきた。
何でもチャーター便の日本人大型ツアーグループが、モロッコに行くのだが、モロッコ人の日本語ガイドが足りない(エジプトほど日本語ガイドがいなかったらしい)、
そしてできればアラビア語と日本語ができる添乗員を望む、という日本側のリクエストで、エジプトからエジプト人の日本語ガイドがモロッコへ飛ぶことになった。
一週間経って帰ってきたワイルは顔を真っ赤にし、ぷんぷんしていた。(以下、( )の中の台詞は私の心の中の声です)
「いやあ、最悪だったよ。モロッコ人の奴ら、あいつら何なんだ。嘘つきで傲慢で自分勝手な連中め。(←あんたもね)アフリカ人めが! (←あんたもね)
第一、金をちょろまかすんだ! バザール(土産屋)のマージンも誤魔化しやがって、ちゃんと俺の分をよこさないんだ。封筒の中身を見たら、全然少ない。文句言うと、モロッコ人ガイドめ、とぼけるんだ! (←あんたもいつもやっているよね)」。
さらに
「モロッコ方言のアラビア語は"全く"分からないし、いろんな所でやたらフランス語が出てくるんで、結局英語を使っていた、エジプト人の俺がわざわざ出向いた意味はゼロだったね」。
「...」
そう、モロッコ方言のアラビア語は全然別物なので、エジプト人は彼らの話すことを全然理解できない。
反対に、エジプトは(ああでも)"中東のハリウッド"と呼ばれており、エジプトのポップスや映画ドラマがたくさんモロッコにも行っているため、モロッコ人の方はエジプト方言を理解する。
ワイルは続けた;
「そもそも俺たちエジプト人は、外国人が国内に攻めて来ることには慣れているけどさ、外国に出る方は苦手かもしれないよな、ハハハ」。
確かにそうかも、とちょっと思った。なぜなら古代王朝崩壊後、エジプトは外国に攻められてきてばかりで、彼らの方は攻めていない。(スーダンやエチオピアなど除く)
エジプトはアフリカ大陸に位置するものの、ヨーロッパ(地中海)とアジアにも結合している唯一の国、そしてナイルとこれから登場するスエズ運河も持つ国。だからこそ、多くの国に狙われる。
ペルシャも国力が弱まり、エジプトもすでに傾いているところに、外国勢に進攻されエジプトは滅びた。
国の財政も破産した。エジプトという国は、もうこのまま歴史から消えるように見えていた。
ところが、それを救った一人の、たった一人の外国の男がいた。
マケドニア(ギリシャ)のアレキサンダー大王だ。
アレキサンダー大王は弱体化していたペルシャをやっつけ、紀元前332年にエジプトに進軍した。
その頃、エジプト人は支配者ペルシャに痛め付けられて喘いでいた。だから彼らは大王を救世主として、そして自分たちの新しい"ファラオ"として熱狂的に崇めた。実際、アレキサンダー大王は古代エジプト教を崇拝した。
地中海のマケドニア国出身のアレキサンダー大王は、祖国と同じ地中海に面した土地に、新しいエジプトの首都、アレキサンドリアの街を作り上げる。それは完全にギリシャの街だった。
テーベ(ルクソール)はもはや過去の都に成り下がった。
国の中心はヘレニズム(エジプトとギリシャの融合)文化を極めることになる、アレキサンドリアの街に移った。
アレキサンドリアはそののち、アフリカで最大の都市にもなり、世界一と言われるほどの文明都市にも上りつめる。
なお、この時に、大勢のユダヤ人が入ってきた。アレキサンドリアは商売で一番儲かる大都市だったからだ。
「アレキサンドリアはとてもロマンチックな街よ。絶対行くべきよ」。
エジプト人はみんなそう言って、私にアレキサンドリア旅行を薦めた。
マケドニアのアレキサンダー大王が作り、クレオパトラ七世がここのどこかに眠る街。
マケドニア人(ギリシャ人)、ローマ人そしてトルコ人、ユダヤ人、イギリス人が入ってきた、地中海に面する国際都市。
世界七不思議の一つの灯台もあり、かつては世界一といわれた大図書館もあった街。
それはもう、期待に胸を膨らませアレキサンドリア行きの(ボロっちい)鉄道に乗り込んだ。
が、結論を言えばがっかりした。かつての世界一栄えた文明都市の名残りも、国際都市だった時の華やかさも何一つ残っていやしない。熱海と変わりやしないじゃないか。
海に行くと、シェラトンホテルのプライベートビーチでは、海水パンツのヨーロッパ人の男性たちやビキニ姿のヨーロッパ人女性らが泳いでいた。
そして、すぐ横(フェンスで分かれていた)のパブリックビーチから、エジ男君たちが、そのフェンスにピタッと張り付き、シェラトンのプライベートビーチの外国人ビキニ女性たちを、じいいいいと見ている...
そのパブリックビーチではTシャツと短パンの服装で泳ぐエジプト人男性たち(男も上半身裸にならない)、黒いアバヤ(外套状の長衣)のまま泳ぐエジプト人のオバチャンたちばかりだった。
太ったオバチャンたちが、全身真っ黒のアバヤ着衣のまま水浴びをしていると、トドにしか見えなかった...!
このアレキサンドリアの街が遥か昔には、世界の最先端を行くイケイケの都会だったとは、かなりの想像力を用いないと全く想像もつかない。
ところが、アレキサンドリアの忘却と追憶、そして栄華と衰退の時空間をふわふわ漂う人々がいた。ギリシャ人たちだった。
エジプトのギリシャ人たちとの私の出会いは、カイロのギリシャレストランだった。どういうわけか彼らは全員親日だった。
「なんで皆さんは親日家なのですか」
「日本も海の国です、だから仲間です」
と初対面で言われたことは、今でもはっきり憶えている。山か海か砂漠の民か、で仲間か他人か敵かを決めるのだな、と。
彼らは"海の民族"同士ということで、とてもエジプトの日本人に友好的だった。そしてある時、
「我々の街、アレキサンドリアのギリシャ人パーティーに来てね」と誘われて、本当に出向いたらまあびっくらこいた。
一生、絶対一生忘れないが、そこの大きなレストランを借りきって、ギリシャ音楽で踊ってギリシャ料理を食べ、ギリシャの酒ウゾを飲み、
「レッツブズーキー」「日曜はだめよ」などのギリシャレストラン民謡?懐メロ?のBGMに合わせ、ずっと肩を組んで踊り、
アレキサンダー大王の話やアレキサンドリアにおける、グレコローマン時代の話を"つい昨日"のように語り合っていたのだ。
その時の私の連れが、モスリムに入信した日本人の女友達だった。彼女はヒガーブ(スカーフ)を頭に被っていた。
すると、ギリシャ人の睨む目が尖っていたことよ..ああここまでモスリム嫌いなんだな、と思った。
ギリシャ人たち側からの目線で歴史を読むと、それも分からないでもないが、約二千年も経つ過去の栄光や怨念を、つい先日のことのように語られると、世界平和実現もなかなか厳しいデスナ。
とにかくエジプトのギリシャ人たちには、アレキサンドリア大王時代、プトレマイオス時代についてさんざん饒舌に自慢された。あまり聞いていると、何だろう。平家物語を聞いているかのように思えてきた..
エジプトのギリシャ人たちが力説するのは、
ギリシャがエジプトを救い、ギリシャがエジプトを導き、ギリシャがアレキサンドリアの街を作りあげ、そしてエジプトがそれらを全て駄目にしやがった、と。(←事実、その通り)
ところでアレキサンダー大王よりずっとずっと前に、ギリシャ人の旅行家ヘロドトスも、エジプトに来ており、エジプトのことをいろいろ書き記している。
良くも悪くもエジプトと一番長いお付き合いがあって、エジプトを一番理解しているのは、私もやはりギリシャだと思う。
エジプトに住む外国人は、私も含め誰もがエジプトの悪口を言っていた。(街は汚い、人々はいい加減、お金もすぐに誤魔化す)エジプト人を罵らない外国人なんて皆無だった。苦笑
が、思わず唸るのだが、さすがだ。中でもギリシャ人の口から出るエジプトの悪口がナンバーワンで筋金入りだったから。大苦笑
またそれと同時に、一番エジプト人の本質と気質を理解していたのも、やはり彼らギリシャ人だった。
だから、のちにエジプトの扱いで手を焼くイギリスも、ギリシャにもっとエジプト人のことを教わっておけば、もう少し長くエジプトを統治できていたかもしれないな、と私は思わないでもない。笑
↑激安観光ツアーでも高額観光ツアーでも、必ず訪れていた、アレキサンドリアの地中海に面するレストラン『サンジョヴァニ』のメニュー。三十年経ってもメニューが全く変わっていないことに驚きました。全く同じです、揚げた白身魚、ポテト、シーフードピラフ。
↑そもそもこの顔ぶれなので、ロマンチックな街と言われても、ロマンチックになりようがなかった。アレキサンドリアのシタデル。大砲で遊ぶ子供たちが左に..
↑アレキサンドリアのローマ円形劇場の跡。小さいので、田舎(アレキサンドリア)の演芸場っていう扱いだったんじゃあ..。なお、カタコンベ(墓)の写真だけは、どんなにやってもアップロードできなかったため、残念..
↑アテネにも住んじゃった時。(エジプトに比べ、やっぱり遺跡はあまり面白くなかった)
↑私の借りた家に招待した、アルバニア人女性とアラブ男性のご夫婦(と赤ちゃん)。元々難民でしたが、アテネで美容院を経営し彼らは成功した移民といえるでしょう。
アレキサンダー大王がバビロニアで亡くなった後、大王の武将のひとりだったプトレマイオス一世がファラオの座に着く。
一世はさておき次のプトレマイオス二世が、これがまた優秀だった。
彼はアレキサンドリアの大図書館を建設しただけでなく、
かつてのエジプトの支配者、ペルシャのダリウス王が作ったものの、今や捨てられていた運河を再び使用可能にした。(←運河は使っていないと、すぐに埋まる。)
そしてプトレマイオス二世は単に運河を復活させただけでなく、さらなる開発を目論んだ。
地中海と紅海を運河で繋げようと思いついたのだ。
うまくいけば、航路がガラッと変わる、世界が変わる。ヨーロッパとアジアが近くなる、繋がるのだ。
スエズに運河が流れれば、ヨーロッパとアジア(インド)が近くなる。アフリカ大陸大回りせずに済む。ちなみに上の地図のwest bank(西岸)とはイスラエルのこと。エジプト人もアラブ人も、イスラエルをwest bankとしか絶対呼ばない。
ところが、地中海と紅海の水位の高さが異なるため、運河で繋げることは不可能だ、という結果が出てしまった。
これが測定の誤りであったことが判明するのには、ナポレオン三世の時代まで待たねばならない。
しかしプトレマイオス王朝も、そのうち衰退していく。その主な理由は肉親同士の陰謀や蹴落とし合い、裏切り横などぐちゃぐちゃしたからだった。
私の勉強不足のせいかもしれないが、日本史ではそんなに身内同士で足を引っ張り合うというのはなかった気がするが、世界史を見ると結構、身内の中の醜い争いが多い気がする。どうかな?
プトレマイオス王朝は、かの有名なクレオパトラ七世の自殺、そして息子のカエサリオンが殺害されるところで終焉を迎える。これでエジプトは王国でなくなり、ローマ帝国の属州になった。
つまり、プトレマイオス王朝のみならず、"数千年"続いた古代エジプト時代が全て終わったということだ。また別の言い方をすれば、エジプトにおけるギリシャ(マケドニア)の頂点の終焉でもある。
(↑次々に埋もれた王朝が発掘/発見されているため、あえて"数千年"にしておきます)
次に、ようやく"コプト"(クリスチャン)のエジプト時代がやってくる。スエズ運河はまだ埋もれており、静かだった。
つづく
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