コスモス畑のエゴ
コスモス畑に行ってきて、ふと思ったこと。
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言語化するのは大変難しいのですが、どちらかと言えば「枯れた」花を撮るのが好きです。
心理学的に何かあるのかもしれませんが、専門じゃないので分かりません。
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しかし何となく、しかし率直に思うのは、「綺麗な花だけを選んで撮るというのは、なんて身勝手なのだろう」ということです。
一般的に枯れた花は被写体にはなりません。むしろ「写したくないもの」かもしれません。しかし、そこに撮影者のエゴを感じてしまうのです。
今時点では枯れている花にも「満開」だった時期があったはずです。それが「枯れた」という一点のみで見向きもされないどころか、むしろ邪魔者扱いされるのを想像すると、何ともいたたまれない心地になるのです。
この話は人間に置き換えてしまうと、随分残酷な話になります。あんなにちやほやされていたイケメンだって、老けてヨボヨボになったらあっさりと手を引く。むしろ新しいイケメンに目移りする。所詮、表面的な関心しかないのか。そう思ってしまうのです。
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「美しい」とは何か。それは主観的な観念なので、それを定義することは非常に難しいです。
しかし、一般的には「美しくない」とされるものも、物の見方を変えれば「美しい」とされるかもしれません。鉄釘の錆に時の重みを感じ、色褪せたトタンの家に人間の営みを感じ、泥だらけの子供に生命力を感じる。
例えば街のイルミネーションのような「意図的な美しさ」を切り取るだけでなく、そういう「新しい美しさを能動的に再発見すること」こそ、写真を撮る醍醐味なのではないかと私は思うわけです。
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被写体を選ぶということは「必要悪」なのかもしれません。
綺麗な写真を撮りたい、あるいは、汚れたものを画角に入れたくない、というのもごく自然な人間の心理なのでしょう。
一方で、ファインダー越しに普段避けているものと正面から向き合い「葛藤」することも、時には必要なのだろうと思います。