#29 居場所
わたしたちにはたぶん、居場所が必要だ。
できれば小さな自分の部屋や作られた物語の内側だけじゃなく、生きている人の手や心の中に。
あるいはどこか果てのない広い世界の真ん中に放り出されて見つけるか。
私たちはみんな宿命的に自分以外にはなれないのに、自分が自分である重さを実感として手に入れるために必死にひとりになろうとしたり、逆に誰かに必要とされようとあがきながらしか生きていけないのは、せつない。
「えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる」79ページより。
ここ最近、特段2020年に入ってから、私自身もバランスをよく崩しながら若者特有の「蒼さ」を人にぶつけられることが多かった。
めちゃくちゃ好きだった人は元カノのことで私の前で泣きながら酒を飲むし、無理やり抱きしめて来た年上は呪いのように「誰かのために働きたい」とよく言っていた。
上澄みの下、本当の部分でみんな私を求めながらも多様に傷つけた。
これは2003年2月3日の咲子さんの日記であるけれど、お守りのように感じている。「そうだった、居場所が欲しくて私たちはこんな愚かなことをして傷つけあっているんだ」。そう思うと人も自分も幾分許せる。
寺山修司の「かなしくなったときは」という詩に出会った。ここ最近ずうっと悲しくて、どうにかなりそうで、ベッドの上で悪夢を見たり動けなくなったり。
ちょうど海を見に行きたいと思っていて、染みた。
以下に紹介。
かなしくなったときは 寺山修司
かなしくなったときは
海を見にゆく
古本屋のかえりも
海を見にゆく
あなたが病気なら
海を見にゆく
こころ貧しい朝も
海を見にゆく
ああ 海よ
大きな肩とひろい胸よ
どんなつらい朝も
どんなむごい夜も
いつかは終る
人生はいつか終るが
海だけは終らないのだ
かなしくなったときは
海を見にゆく
一人ぼっちの夜も
海を見にゆく
最近先輩に心の元気を聞かれて「落ち込むこともある」と素直に言ったら引かれてしまって反省した。
しかし私は思えない。
朝起きて涙出ることが、夜動けなくなることが、どうして「弱い」なのかと疑問に思ってしまう。
どうして一様に強くないといけないの?
そして自殺志願者に一口に生きろとも言えない。
「死にたい」より「生きたい」と言い続ける人の方が心配という原理も分かってしまう。
「生きたくても生きられない人が…」から始まる常套句もなんて意味の無さない言葉なんだろうと悲しくなる。
今日見た映画(「an education」)の少女は「惰性で生きるのは嫌だ」と学校を飛び出した。挙句に悪い大人に裏切られて悟る。「人生に近道はない」と。
悩んで惑って苦しくなって、それでも前進する人を、
心が弱いと一括りにしたり、軽蔑したりするのは想像力が足りない。
私自身、強さを褒められることが多いが、それは上澄みで本当は「ガラス」や「豆腐」だ。みんな真実が見えていないだけ。
居場所を求めて「タイミングが合わない」といつも嘆いていたあの人が明日歳を取る。声のかけ方が判らない。
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