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漫画名言の哲学7 差延する自己 ―「ヅラじゃない桂だ」をデリダで読む

過去にご紹介した通り、週刊少年ジャンプは、私の思想の根幹を形作ってきた。他の漫画雑誌にも素晴らしい作品は多いが、ジャンプ作品との出会いは私の価値観を決定的に方向づけた。
そんなジャンプ作品の中でも、特筆すべき存在が『銀魂』だ。一見すると破天荒なSFコメディでありながら、その作品世界は現代社会の本質を鋭く切り取る深い示唆に満ちている。



桂小太郎の信念

その中でも特に印象的なのが、攘夷志士・桂小太郎の存在だ。ご存知の方も多いと思うが、今回は彼の名言を紹介したい。

「ヅラじゃない、桂だ」

空知英秋著「銀魂」

変装の達人として知られる桂は、その長い黒髪から「ヅラ」というあだ名で呼ばれ続ける。そしてそのたびに、彼は律儀に「ヅラじゃない、桂だ」と返す。この一見シンプルな掛け合いは、しかし現代社会における自己同一性の問題を鋭く突いているのではないだろうか。


デリダの、「差延」

デリダの「差延」の概念から見たとき、桂の「ヅラじゃない、桂だ」という執拗な自己主張は、単なる言葉遊びを超えた深い意味を持つ。

まず注目すべきは、桂という存在の流動性だ。攘夷志士として様々な変装を繰り返し、時に女装さえする彼は、固定的なアイデンティティを持たない。むしろ、その正体は永遠に延期され続ける。そんな彼だからこそ、逆説的に「桂だ」という主張を繰り返さざるを得ないのだ。

さらに興味深いのは、この自己主張の反復性である。「ヅラ」と呼ばれるたびに、必ず「桂だ」と返す。この儀式的とも言える反復は、実は自己同一性の不安定さを逆説的に示している。完全に確立された自己であれば、このような執拗な自己主張は必要ないはずだ。

「ヅラ」という呼びかけの中には「桂」の痕跡が、「桂だ」という主張の中には「ヅラ」の痕跡が常に潜んでいる。二項対立的な「ヅラ/桂」の区別は、実は絶えず自らを解体していく。それは現代社会における私たちの自己同一性が、常に差延し続けているということの寓意とも読める。

この不確定性は、しかし必ずしもネガティブなものではない。むしろ、そこには新たな可能性が開かれている。固定的な「私」という幻想から解放され、常に生成変化する存在として自己を捉え直すこと。桂の「ヅラじゃない」宣言は、そんな現代的な自己理解への道を示唆しているのだ。


本当の自分とは何か

私たちは日々、SNSのプロフィールや、職場での肩書き、家族との関係性など、様々な「自分」を演じ分けている。その中で「本当の自分」とは何かと悩むことも多いだろう。

桂の「ヅラじゃない、桂だ」という一見滑稽な繰り返しは、実はそんな現代人の姿を映し出す鏡となっている。完璧な「自分」など存在しないからこそ、私たちは自分らしさを求めて歩み続ける。その終わりなき旅の中に、むしろ可能性は開かれているのかもしれない。

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