漫画名言の哲学9 『ゴールデンカムイ』と聖なる狂気
私は時として深い衝撃を受ける漫画に出会う。週刊ヤングジャンプで連載された『ゴールデンカムイ』は、その最たるものだ。アイヌ文化の丁寧な考証、複雑な人間ドラマ、そして何より野田サトル先生の圧倒的な表現力。それは単なる娯楽を超えた、現代文学の最高峰とも呼ぶべき作品である。
私は特に、この作品における人間存在の描写の深さに心を打たれてきた。生と死、愛と憎しみ、そして何より「人間とは何か」という根源的な問いへの探究。その哲学的な深みは、ドストエフスキーやカミュにも比肩しうるものだと確信している。
そんな『ゴールデンカムイ』の中で、今回取り上げたい名言がある。
漢達の叫び
蝗害を避けて番屋に集まった五人の男たち。アイヌの老人から贈られたラッコ肉を調理する中、奇妙な空気が流れ始める。やがて、その場の緊張を切り裂くように、漢達の心のなかで叫ばれたのが、この言葉だ。
この台詞を境に、物語は前代未聞の狂騒へと突入していく。アイヌの伝承によれば、ラッコ肉の匂いには強烈な催淫効果があるという。かくして五人の男たちは、抗いがたい欲望の渦に巻き込まれていく。
聖なる逸脱の時間
バタイユは『エロティシズム』で、タブーと侵犯の弁証法を説いた。聖なるものは同時に穢れており、その侵犯こそが逆説的に聖性を確立する。ラッコ肉は、まさにこの両義性を帯びている。アイヌの伝統における神聖な食物が、同時に制御不能な欲望を引き起こす。この逸脱的な力こそ、その神聖さの証なのだ。
カーニバルの解放力
一方、バフチンの「カーニバル理論」は、この狂騒の持つ解放的な性質を照らし出す。普段は厳格な規律に従う男たちが、一時的に日常の秩序から解き放たれる。それは単なる混乱ではない。むしろ、抑圧された身体性が解放される祝祭的な空間の出現なのだ。
褌一丁となった男たちの狂騒は、支配的な社会秩序の一時的な転覆を表現している。そして事後の「誰にも言うなよ?」という約束は、この非日常的な体験が持つ特別な価値を証明している。
聖なる狂気の継承者
『ゴールデンカムイ』は、時に「狂気の漫画」と評される。しかしその狂気は、決して無秩序なものではない。アイヌ文化という確かな地盤の上に、タブーと解放、聖性と猥褻さが絶妙なバランスで織り込まれているのだ。
「このマタギ……すけべ過ぎる!!」という叫びは、実は深い文化的な知恵を内包している。神聖なものと卑猥なものは、決して対立しない。むしろ、その両義性の中にこそ、人間存在の真実が宿るのだ。野田サトルは、そんな深遠な真理を、狂騒的な笑いの中に見事に描ききった。
これぞまさに、バタイユとバフチンが探究した「聖なる祝祭」の、現代における最高の継承者と言えるのではないだろうか。