漫画名言の哲学6 他者との出会い ―フリーレンが教えてくれる他者との向き合い方
私は生粋のジャンプっ子である。しかし今回は、異例にも他誌の漫画『葬送のフリーレン』を取り上げたい。理由は単純だ。流行っているからである。
記事を読んでもらいたいという欲求から、私は世間で話題のこの作品に飛びついた。以前も述べた通り、私は小説を読まれるためなら何でもする卑劣な男なのだ。
しかし、実際に読み始めると、その魅力に取り込まれていった。まだ全巻は読み終えていない私だが、特に印象的だったのは第1話のある言葉だ。
フリーレンの過ち
千年以上の寿命を持つエルフの魔法使い・フリーレン。魔王を倒した勇者パーティの一員として「たった10年」を共に過ごした彼女は、人間の勇者ヒンメルの死に直面して初めて、自らの過ちに気付く。
レヴィナスの他者論
この言葉をレヴィナスの他者論から読み解くとき、私たちは重要な示唆を得ることができる。レヴィナスは、他者との真の出会いとは、自己の全体性を揺るがす衝撃的な経験だと説く。
それまでフリーレンは、人間という存在を自身の千年の時間の中に回収可能な、理解可能な存在として扱ってきた。しかし、ヒンメルの死という決定的な他者性との出会いによって、彼女の世界認識は根底から覆される。
レヴィナスは「他者の顔との出会い」を重視した。それは、他者を自分の理解の枠組みに還元できない、絶対的な他者性との出会いを意味する。フリーレンの涙は、まさにこの他者性との衝突を示している。「だって私、この人の事何も知らないし…」という彼女の言葉は、皮肉にも他者の無限性への気づきを表現している。
「たった10年一緒に旅しただけだし…」というフリーレンの言葉は、単なる時間の長さについての発言ではない。それは、人間という存在の持つ有限性と、その有限性ゆえの貴重さへの覚醒なのだ。レヴィナスが言うように、他者との真の出会いは、常に倫理的な要求を伴う。「私はもっと人間を知ろうと思う」というフリーレンの決意は、この倫理的要求への応答として読むことができる。
人間の短い寿命を知っていながら、その時間の持つ本当の意味を理解していなかった。この気づきは、実は私たち読者自身への問いかけでもある。目の前にいる他者の「顔」に、私たちはどれだけ真摯に向き合えているだろうか。
短い人生だからこそ、「他者の価値」を知ろう
フリーレンの物語は、私たちに時間と他者性についての深い洞察を与えてくれる。千年を生きるエルフだからこそ気づかなかった「たった10年」の重み。それは、日常に埋没する私たちもまた、見失いがちな真実ではないだろうか。
レヴィナスは「他者との関係は、所有や認識の関係ではない」と説く。フリーレンが「もっと知ろうと思う」と決意したように、他者を「知る」という行為は、決して完了することのない終わりなき旅なのだ。それは他者を自分の理解の中に回収することではなく、むしろ他者の無限性に向かって自らを開いていく過程である。
私たちの生きる時間は、エルフのように千年もない。しかし、だからこそ、目の前の他者との出会いには測り知れない価値がある。フリーレンの涙と決意は、そんな当たり前の、しかし忘れがちな真実を、私たちに静かに語りかけているのだ。
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(できれば、私の小説も読んで欲しい。面白いから!)