![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164390461/rectangle_large_type_2_3afd2ae2ea7136feea55ea688d86443a.png?width=1200)
漫画名言の哲学番外編1 リーガル・ハイ ―「絆」という言語の罠
「絆」という言葉。この言葉が私を辟易させるのは、その使用文脈があまりに多義的で、時として欺瞞的だからだ。
私は現在、『西成のチェ・ゲバラ』という小説を書いている。そこで描こうとしているのは、路上で生きる人々の、助け合わざるを得ない切実な現実から生まれた関係性だ。
それは決して美化できるものではなく、時に暴力的でさえある。しかし、その現実に根ざした言葉の使用には、確かな重みをつけたいと最新の注意を払ってきたつもりだ。
一方で、東日本大震災後に頻繁に使用された「絆」という言葉は、しばしば表層的な連帯を装う修辞として機能した。
「絆があるから!!!」
この痛烈な皮肉は、ドラマ『リーガルハイ』で古美門研介が放った言葉だ。舞台は、化学工場による環境汚染に悩む東モンブラン市。住民たちは工場側から示された和解案—ようかんと商品券、そしてわずかばかりの和解金—を化学工場との「絆」の名の下に受け入れようとしていた。
その様子を目の当たりにした古美門は、
「工場も汚染物質を垂れ流し続けるけど、きっともう問題は起こらないのでしょう、
だって絆があるから!!!」
と、住民たちの態度を痛烈に批判したのだ。
言語ゲームと神話作用
ウィトゲンシュタインが指摘したように、言葉の意味はその使用文脈によって規定される。「絆」という言葉は、使われる場面によって全く異なる意味を持つ。路上の切実な助け合いと、企業の欺瞞的な「誠意」とでは、同じ「絆」でも、その言語ゲームは根本的に異なるのだ。
言語ゲームの本質は、その使用の文脈にある。西成の路上で「絆」という言葉が使われるとき、それは生存に関わる切実な関係性を指し示している。一方、企業が「絆」を語るとき、それは往々にして責任逃れの修辞として機能する。この使用法の違いにこそ、私たちは注目すべきだ。
バルトの言う「神話作用」の観点からすれば、古美門が痛烈に批判するのは、まさに「絆」という言葉が持つ脱政治化の効果である。「絆」という言葉で語ることで、企業による環境破壊や人権侵害という政治的・社会的問題が、あたかも情緒的な人間関係の問題であるかのように矮小化されてしまう。
言葉の文脈に警戒せよ
「商品券をくれた」「誠意を感じられた」という表層的な関係性は、「絆」という言葉によって粉飾される。しかし、ウィトゲンシュタインが教えてくれたように、言葉の意味とは、その使用法に他ならない。「戦い」の文脈で使われるべき言葉が「慰め合い」の文脈で使われるとき、言葉は空虚なものとなる。
結局のところ、古美門が拒絶したのは「絆」という言葉そのものではない。彼が激しく否定したのは、この言葉が持つ麻酔的な効果だ。それは、言葉の本来の使用文脈を歪め、政治的な問題を感傷的な人間関係の問題へと還元してしまう。
私たちに必要なのは、言葉の使用を注意深く観察することだ。「絆」という言葉が、いかなる文脈で、いかなる効果を持って使われているのか。その観察なしには、言葉の本質的な意味を理解することはできない。