カールマルクスが渋谷に転生した件 40 ひかり、インフルエンサーになる(後)
ひかり、SDGsを強制される
第36話 ブランドという幻想(承前)
「SDGsって、結局ブランドですよね」
講義室で、ひかりはため息をつく。
『SDGsとグローバル・イノベーション』。帝都大学の新設必修科目だ。
スクリーンには企業のSDGs達成度グラフが映し出されている。
「本日のワークショップでは、SDGsの17の目標から一つ選び、企業の取り組み事例を...」
教授の声が、どこか虚ろに響く。
「でも、これで十分じゃない?」
前の席の学生が振り返る。
「私なんて毎日エコバッグ持ち歩いてるし、マイボトル使ってるよ。環境に優しいでしょ?」
「そうそう」横から別の学生も。「うちの就活先の企業なんて、全社員にエコバッグ配ってるんだよ。すごくない?」
ひかりは黒板に向かって視線を固定する。数値化された目標。グラフ化された達成度。なにか、決定的に足りないものがある。
講義後の教授室。
「なるほど」西野准教授が、学生たちの企画書に目を通す。「文化祭でSDGs特集を、と」
「はい」学生自治会の代表が説明する。「若者に身近な形で、環境問題や社会課題を...」
「いや」突然、事務局長が割り込んでくる。「上からの指示で、内容を変更してもらいます」
「変更、ですか?」
「SDGsアイドルユニット『エコ★ピース』をメインゲストに。文科省の推進するSDGs教育の一環として」
西野の表情が曇る。
実行委員の一人であるひかりは、思わず拳を握りしめた。
「アイドル...ですか?」
学生たちの間から、困惑の声が漏れる。
「そう」事務局長は高圧的に続ける。「大学のSDGs達成度も評価の対象。今年度の補助金にも関わる。これは『お願い』ではありません」
*
ひかり、SDGsをディスる
「やれやれ」
翌日、マルクスはひかりの話を聞きながら髭をいじる。「まさに現代版の阿片だな」
「阿片...ですか?」
「かつて宗教が民衆の阿片だった。今や、この『サステナビリティ』という宗教が...」
「でも」ひかりが遮る。「SDGsの理念自体は、間違ってないと思うんです」
「ほう?」
「貧困も、環境破壊も、ジェンダーの問題も、実在する課題です。ただ、それが...」
「商品化されることで、本質が失われる」
マルクスが静かに頷く。
その時、ひかりのスマートフォンが震える。LINEだ。
『ひかりちゃん!久しぶり!私、エコ★ピースの美咲だよ。文化祭に行くって聞いて、連絡してみた』
画面を見つめるひかりの表情が、複雑に揺れる。
かつての研修仲間。同じ夢を追いかけた仲間が、今は「SDGsアイドル」として。
「知り合いか?」マルクスが覗き込む。
「元研修生仲間です。一緒に『商品』になることを強いられた...」
ひかりは少し考え込んでから、続ける。
「でも、今なら分かります。彼女たちなりの、できることをやってるんだって」
「むむ」マルクスの髭が揺れる。「しかし、それは体制への屈服ではないのか?」
「違います」
ひかりの声が、強さを帯びる。
「彼女たちのやり方は、確かに表面的かもしれない。でも、それを簡単に否定しちゃいけないんです。むしろ...」
「むしろ?」
「その『表面性』を逆手に取れないでしょうか」
ひかりは、机の上のスマートフォンを見つめる。
「私、アイドル時代に学んだんです。『演出』の力を」
マルクスの目が輝き始める。「ほう、君には何か案が?」
マルクスは思わずにやけてしまう。推しの成長を見守る喜びが、髭を温かくする。
「この『エコ★ピース』のステージは、むしろチャンスかもしれません」 ひかりは落ち着いた声で説明を続ける。
「文化祭、意外と面白くなるかもしれません」
*
「え? 本当にそんなことできるの?」
文化祭実行委員会で、ひかりの提案に驚きの声が上がる。
「私、アイドルの演出って、意外と重要なことを学べるって気づいたんです」
ひかりは落ち着いた声で説明を続ける。
「『エコ★ピース』のステージは、受け入れましょう。でも、その前後で、実際の環境問題や貧困の現場を、SNSライブ中継で...」
「上が許可するわけない」
ある学生が首を振る。
「だから、許可は取りません」
ひかりが微笑む。
「アイドルのステージを見に来た人たちが、自然と別のストリーミングに流れ込むような、そんな『演出』を」
「まさか」西野准教授が目を輝かせる。「アイドルの集客力を利用して、本質的な議論を広めようというのか」
「はい。私、やっと分かったんです」
ひかりは真剣な表情で続ける。
「否定するんじゃなくて、利用する。でも、それは古い意味での『利用』じゃなくて...」
マルクスが静かに頷く。
「新しい弁証法というわけか」
マルクス、デレる
文化祭当日——
「みんな、準備はいい?」
ひかりがイヤホンマイクで指示を出す。
メインステージではエコ★ピースが歌う。
『もっと エコな 未来へ~♪』
しかしステージの背景や中継には、別の映像が流れ始めていた。
発展途上国の工場で働く若者たち。
気候変動で沈みゆく島々の映像。
そして、それらの問題に立ち向かう人々の姿。
『#本物のSDGs』というハッシュタグが、瞬く間に拡散されていく。
「あれ?」
ステージ上の美咲が、観客の様子に気づき始める。
しかし彼女は、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
「見事な演出だ」
マルクスが感心したように髭をなでる。
「実は」ひかりが説明する。「美咲たちも、こういうの待ってたみたいなんです」
「どういうことだ?」
「LINEで話してて気づいたんです。彼女たちだって、自分たちが『偽物』を演じてることに気づいてる。でも、その立場を利用して、本物につなげることはできる」
その時、ステージ上で予想外の展開が起きた。
「私たち」美咲がマイクを握る。「今まで『かわいく』SDGsを伝えることしかできませんでした。でも、本当の問題から目を逸らしちゃいけない。だから...」
彼女は観客に向かって、スマートフォンの画面を指さす。
「これが現実。でも、絶望じゃない。私たちにも、できることがある」
会場が静まり返る。
予定調和を破るような一瞬。
しかし、それこそが「本物」の瞬間だった。
「見たまえ」マルクスの声が響く。「これこそが、真の弁証法的展開というものだ」
「マルクスさん?」
マルクスは思わず目を潤ませる。 「君から学んだよ、ひかり」 声が少し掠れる。 「理論は、時として硬直する。しかし若い世代は、その殻を破る術を知っている」
「マルクスさんこそ」ひかりが振り返る。「本質を見抜く目を、私に教えてくれました」
渋谷の夕暮れに、新しい物語が紡ぎ出されていく。 それは否定でも肯定でもない、第三の道。 商品化された世界の中で、しかし確かに本物を育んでいく、若者たちの実践の始まりだった。
マルクスは髭を撫でながら、静かに微笑む。
彼は密かに誇らしい気持ちを噛み締めていた。