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漫画名言の哲学17 放棄する美学 -男塾から学ぶ神話

漫画における「リアリティ」とは何だろうか。写実的な絵柄か、緻密な設定か、それとも心理描写の深さだろうか。『魁!!男塾』は、そんな小賢しい問いかけを木っ端微塵に粉砕する。考証も設定も整合性も、そんなものは男の拳一つで吹き飛ばせばよい。むしろ徹底的な荒唐無稽さの先に、より深い真実を見出す作品なのだ。
男塾名物油風呂で鍛えられる精神、江田島平八塾長の胸板で語られる男の道、一見すると笑いのためだけに存在するかのような設定の数々。
細かいことなど知ったことか—。しかし、その豪快な開き直りこそが、かえって人間の本質を炙り出しているように思えてならない。今回は、そんな男塾が誇る「知の体系」について考えてみたい。


知の伝承という劇場

突如として敵が謎の姿勢を取る。あるいは、誰も見たことのない武器を取り出す。観戦者たちが騒然となる中、ある男が静かに口を開く。そんな緊迫の瞬間に必ずと言っていいほど放たれるのが、この言葉だ。

知っているのか、雷電

宮下あきら「魁!!男塾」

この問いかけを合図に、独特の儀式が始まる。観戦者たちが大仰に驚き、「な、なんだあの野郎、急に○○で××な△△を取り出して□□しやがったぞ!?」と、やたら細かい実況を行う。そして雷電は決まって「ムウ」と唸りながら、その技の由来や歴史を解説していく。最後には必ずと言っていいほど、「民明書房」という架空の出版社による文献が引用されるのだ。

男なら一気に全巻を買うべし

バルトの神話

この展開は、ロラン・バルトが『神話作用』で指摘した「意味作用の第二体系」を見事に体現している。バルトによれば、神話とは、既存の記号に新たな意味を付与することで成立する。「民明書房」という虚構の権威を介して、荒唐無稽な技に歴史的な重みが付与されていく過程は、まさに現代における神話の生成過程そのものなのだ。


虚構が生み出すリアリティ

特に興味深いのは、この虚構の装置が逆説的にストーリーに真実味を与えている点だ。1926年創業という具体的な設定、写実的な解説文、学術的な体裁—。これらの細部が積み重なることで、バルトの言う「現実効果」が生み出されていく。

実際、「ゴルフの起源は中国の呉竜府(ご・りゅうふ)が考案した説が支配的である」という解説に、真剣な抗議の電話が入ったという逸話も残っている。荒唐無稽であることを自覚しながら、それでもなお真実味を感じてしまう—。それこそが民明書房という装置の真髄であり、現代の神話作用の本質なのかもしれない。


我々は、時には投げ捨てなければいけない

このように『魁!!男塾』は、バカバカしさと真面目さが絶妙なバランスで織りなす世界観を構築した。それは単なるギャグ漫画の枠を超えて、現代における「神話」の在り方を示唆する重要な文化装置となっているのだ。ここで思い出すのが、男塾のもう一つの特徴—徹底的な男らしさの追求である。考証も設定も細部も、全てを男の拳一つで片付けてしまう豪快さ。しかし、その中にある厳密な「知の体系」。
つまり男塾が教えてくれるのは、物事を突き詰めることと、時にはそれを豪快に投げ捨てることの両方が、実は人生には必要だということなのかもしれない。雷電の「ムウ」という唸り声には、そんな深遠な人生訓が込められているのである。​​​​​​​​​​​​​​​​

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