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小説 涅槃湯 11

四天王親睦会

ダンは毘沙門天の背に乗り夜空を翔けた。訪れたのは須弥山北側の中腹に突き出た庭園だった。この苑林の中央部には、二百八十キロ四方の広大な池が広がる。その池のほとりに人間向きにあつらえた東屋がある。満天の星空に煌々と丸い月がかかり、池には微光を放つ色とりどりの水蓮が咲き乱れていた。すでに人間の武将姿に化身した持国天、増長天、広目天の一行が席についていた。四天王のリーダー格は毘沙門天であり、彼が心中で庭園に行こうと思うだけで、みな側近を引き連れて参集するのだ。
「さあさあ、今宵は無礼講としよう」
毘沙門天が気炎を上げた。
「久々に人間のお客様じゃないか!」
東方を守護する神、赤ら顔の持国天がニンマリと笑った。彼は国を維持する神ともされる。彼の後ろに控える数人の楽神ガンダッバたちが、琵琶や竜笛などで即興のアンサンブルを始めた。
「人間から直接話を聞けるとは珍しい。なんでもいいから、遠慮せずに話にしてくれよ」
南方を守るでっぷりとした増長天が眉間に深い皺を刻んで笑った。彼は穀物の成長をつかさどる神だ。背後のクンバンダと呼ばれる馬頭の自然神たちが一斉に拍手した。甕のような陰嚢が腰布からはみ出ている。
「どうした。さっきからおとなしいじゃないか」
西方の守護にあたる醜怪な藪睨みの持ち主、広目天が眉を顰めた。
「不満でもあるのか?」
すると彼の脇でとぐろを巻いていた数十匹の蟒蛇たちが一斉に鎌首をもたげる。広目天は千里眼を使って世間を観察するという。
「おいおい、あんまり脅かすなよ」と眩しげな眼差しの毘沙門天が間に入る。「まあまあ、呑みなさい」
毘沙門天がお神酒をなみなみとついだ杯を差し出した。 
「きみ、どうして我々を探していたのかね?」
「はい。実はぼくは死の世界などというものは信じてなかったのです。でも今は自死をしそこなった妹の意識を探してあの世のモニターを引き受けることになりまして……」
「信じてもいない世界に妹さんを探しに来たってわけか」
毘沙門天がいうと、一同が薄ら笑いを浮かべた。
「きみたちの世界じゃ、脳が死ねば意識も無になると考えているものが多いと聞くな」と赤ら顔の持国天が杯をあおって、
「脳が死ぬと、あとは朦朧とした意識が残る。だが禅定を行なっていた者は意識を明瞭に保つ。妹さんは朦朧とした意識のまま、死後
の世界をあてもなく彷徨いつづける」
「でも妹は死んでないですよ」
すると眩しげな眼差しの毘沙門天がいった。
「たしかに生きている。だから、行先も定まらない」
「探してもらえないですか?」
 虫のいいことを言うと、
肴に箸を伸ばしながら、でっぷりとした増長天がいった。
「たまにパトロールにでるから、なんなら当たってみよう」
藪睨みの広目天がいった。
四天王は毎月六回ほど地上世界をパトロールすることになっている。仏教ではこれを六斎日と言って、在家信者が八斎戒を守る精進日と定めた。定期的に寺社にお参りし、お坊さんの説法を聞いて内省する。六斎日は新月から満月までの月の前半で八日、十四、十五日と、月の後半の二十三、二十九、三十日を指す。四天王の巡回はある時は配下の夜叉に命じ、ある時は息子たちを使う。また自分たちも見廻りに出る。そして地上の出来事はすべて帝釈天に報告される。
「ところで夜叉ってなんなのですか?」
「ありとあらゆる亡霊、悪霊、自然霊などだ。鬼神とも漢訳されるな。鬼というのは漢語では死霊ということだ。日本でも死んだ人のことを鬼籍に入るという。大きな意味でいうと我々も夜叉だ」
「ぼくたちの世界では空想上の産物ですが」
ダンがそういうと四天王の眦に一瞬ただならぬ険が走った。
しかし毘沙門天はすぐに眩しそうに眼を細め、
「見えてないだけだ。この宇宙には正体不明のダークマターやダークエネルギーといった光学的に観測できない物質があるというじゃないか。観測可能な物質は僅か四パーセントに過ぎないという。同じようにあらゆる人の住居には人間たちには見えない鬼神が満ちていて、空虚なところはどこにもない。すべての通りや路地や十字路、市場や墓、村、土地、川、山などにも満ちている」
「なにか影響があるんですかね?」
「もちろんだ。鬼神の中には人の邪魔をするものと、人を守護するものがある。どちらの影響を受けるかは、仏の定めた法と十善業が守られているかどうかによる」
「十善業?」
「業とは行いのことだ。行いには三つある。身体による行為、言葉による行為、心による行為だ。この三つの善い行いを十に分類したのが十善業だ」
「へえ……」
「十善業を甘く見るなよ。これが修められたらお前は、望むなら神にもなれるし仏にもなれるのだ」
「ちなみにどんな行為ですか」
「一つ、殺害をしないこと。二つ、盗まない。三つ、不義を働かない。ここまでが身体の行為だ。四つ、嘘偽りがない。五つ、二枚舌を使わない。六つ、誹謗中傷しない。七つ、戯言をやめる。ここまでが言葉による行為。八つ、貪らない。九つ、怒らない。十、誤った考えを捨てる。以上が心の行為だ。ブッダが説く誤った考えとは、人を助けても意味がなく、その報いも福もない。善いことをしても悪いことをしても無意味でその報いもない。この世もあの世もない。父も母もない。ひとの命に意味はない。ブッダも阿羅漢もいないといった考えだ。この十善業が地上で守られなくなると、人々を守護する鬼神の数が減る」
「そんなこと完璧にできる人いるのですか?」
「いない」
「できなきゃ地獄行さ」
赤ら顔の持国天がほくそ笑んだ。
「懺悔しなさい」
とでっぷりとした増長天。
「懺悔だけじゃだめだね――」藪睨みの広目天がいった。
「八〇億回前くらいの宇宙誕生から積んできた罪業の罪滅ぼしをしなきゃ」
毘沙門天は眩しげに微光を放つ蓮池を眺めていたが、やにわにダンのほうに向きなおりいった。
「きみにもアーターナータの護呪を教えとこう」
「アーターナータ?」
ダンが訊き返すと、後ろの夜叉たちが口を開いた。
「閣下の天空に浮かぶ城塞のことだ」
毘沙門天はいう。
「なにしろ夜叉の中にはたちの悪い連中がいて、堅気の人に取り憑いて離れないことがある。こういう連中は殺生や盗みなどの十悪業がなにより大好きなのだ。だから真面目な信者や比丘たちが悪い影響を受けないように、私が世尊にお伝えした護呪があるのだ。いま唱えてみようか」

  智慧の眼を持つ光輝なヴィパシン仏に帰依します
  一切衆生の為に慈しみ深いシキン仏に帰依します
  浄められた苦行者のヴェーッサブ仏に帰依します
  魔王の軍隊を打砕いたカクサンダ仏に帰依します
  やり遂げた婆羅門コーナーガマナ仏に帰依します
  何処に於いても自在なるカッサパ仏に帰依します
  一切苦を除く法を示したゴータマ仏に帰依します
  ………

アーターナータの護呪は釈尊を含める過去七仏への帰依に始まり、四天王の権威と威力を誇示し再び釈尊への礼拝と誓いで終わる。東南アジアの仏教国ではこれをパリッタ(護呪)と言い、実際に今も悪霊祓いの儀礼に使用する。
毘沙門天がいった。
「きみがこの呪文を習得すれば、ごろつきの邪霊に付き纏われるようなことはなくなる。なにしろ仏に帰依しているものに手を出したら、俺たちの国では村八分になったあげく、西瓜のように頭を砕かれるきまりになっているのだ」
毘沙門天の目はいつしか血走っていた。
「だがなかには極悪な凶悪犯がいるもんだ。もしそいつらに出くわしたらこの呪を唱えなさい」 

我は汝らを召喚す!
 インダ、ソーマ、ヴァルナ、バーラドヴァージャ、パジャーパティ、チャンダナ、カーマセッタ、キンニガンドゥ、ニガンドゥ。
 ………
 マニ、マーニチャラ、ディーガ。そしてセーリッサカよ!
 我は威力ある夜叉、大夜叉、軍帥、大軍帥を召喚す。
我が訴えを聴け。
この鬼霊は我らを侵し、悩ませ、害い、いまだ去らず!

「この呪は110番通報みたいなものだ。通報が寄せられたら所轄の四天王軍団が直ちに現場に急行し、凶悪犯どもを一網打尽にする」
アーターナータの護呪は、二段階の悪魔祓いの過程で使用される。まずごろつきの鬼霊を、過去七仏への帰依と権威を持つ夜叉の名とによって抑止しようとする。ちょうど水戸黄門一行が葵の紋を振りかざして、悪代官たちをひれ伏させるのと同じである。しかしそれでも逃げ出したり、手向かったりする輩がいるものだ。そのときは助さん角さんの出番となる。同じように、障りを止めない邪霊は、仏法を守護する最強の軍団に取り締まってもらうのだ。
このような仏教の元来もつ呪術性は決して非合理な迷信ではない。ブッダが有する絶大な守護力は、霊的世界と現象世界に及ぶ。ここに後の密教の呪術信仰の原点がある。
四天王とその配下は、この呪を毘沙門天から聞くあいだ姿勢を崩すこともなく、眼は炯々とダンを見据えていた。
ダンが訊く。
「十善業、できなくても護ってもらえますか?」
四天王たちが噴き出した。
「ワッハハハ! 試してみりゃわかるさ」

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