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分厚くて重くて長いこと──山本浩貴『新たな距離』読書会を経た覚書

先日、批評同人誌『応答』をいっしょに制作したコトヒキ会の3人(大玉代助さん(@00tma)、三澤蟻さん(@3sawa4ri)と私=才華(@zaikakotoo))で、山本浩貴『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』(フィルムアート社、2024年)の読書会を行った。

まず率直に、この本はとても分厚く、持てば並みでない重量感を覚え、ページをめくるのにもそれなりに苦労する。実のところ、電車内で読もうと外に持ち出したはいいものの、取り出すのが億劫すぎて、移動中に読むのは諦めたということもあった。だから結局、この本のほとんどは、自宅の書見台に立てかけられて、手で持つことなく読まれた。

さらに言えば、それでもなお、読み通すには苦労した。繰り返すが、この本は分厚い。600ページ以上ある。それも単にレイアウトされているのではなくて、2段組のページもあれば、3段組のページもあり、ときには註釈がページをまたいで浸食している見開きもあった。

加えて、それぞれの論攷は重厚で、む、これは集中せねば……と刺激的な部分を読むさいには、当然ページを行ったり来たりして内容を確認しなければいけなかったし、正直に打ち明ければ、まったく見知らぬ作品についての批評は、頑張って読もうにも、どうにも退屈で、読むにもうつらうつら、うとうと、そのまま昼寝してしまったこともあった、と告白せねばなるまい。

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と書いて、『新たな距離』を読んだ読者諸氏には、まさしくそういうことをこの本は書いている、ということが連想されよう。

短く区切られた詩歌ならまだしも、小説を書くにも読むにも酷く時間と労力がかかる。人間の肉体は、何時間、あるいは何日もかけて、ひとつの〈アトリエ〉のもと生産された(生産している)テクストに付き合い続けなければならない。

山本浩貴『新たな距離』、34頁。強調は引用者による。

そう、本 ──と乱暴に一般化してしまうことを一端許してほしい── を読むのには「酷く時間と労力がかかる」のだ。

「ああ、あの本なら読んだよ」と、一口に言うのは簡単だが、本当にはその過程に、「まだ途中だけど明日仕事だしもう寝なきゃ」とか、「中途半端だし、2章を読み終わったらご飯作ろう」とか、「3時に友達来るからもう本片付けなきゃ」とか、そういう時間的・物理的制約があったはずだ。

そういう、本を読むこと/書くことがわれわれを、肉体的・物理的に、否応なしに規定するさまを、「身体性」という言葉でとらえてもよいだろう。本を読むこと/書くことは、「身体性」を伴うのだ。

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加えて、そういう本を読む/書くという行為そのものに伴う「身体性」とはべつに、本の内容がわたしたちの身体を規定してくることもある。

たとえば、お気に入りの例として、映画『ロッキー』を見た友人の例がある。友人はこう言った。「『ロッキー』めちゃくちゃ感動して、さすがにボクシングは始めなかったけど、見たあと走りに行っちゃったよね」と。

もちろんそれは映画だから、本ともまた違うのだけれど、ただ、小説のようなフィクションが及ぼす「身体的」な作用を示す例としてはぴったりだろう。わたしたちは、フィクションを通じて、実際に「身体的」に行動を左右されうる。

これもまた、本書が大切に繰り延べていることだ。たとえばこんなふうに。

《テクストは、それを〈表現 expression〉した〈者 person〉や、その周囲で〈表現〉を規定した〈環境 environment〉を、さかのぼって仮構しないではいられない。この傾向・質をめぐる一定のまとまりを〈主観性 subjectivity〉と呼ぶ》

『新たな距離』、18頁。

小説とは、現実の生のから切り離され自律したフィクションを構成する(受け取る)ための形式ではなく、日々生きるなかで余暇としてそこに触れ、思考しつつ別の行動を為していく、そのような肉体の取るスタイル(を変えたり、整えたりする営み)のひとつである。

『新たな距離』、34頁。

小説は世界を変えることができない(かつても、これからも)。しかし小説を書くことで変容した私が、それ以前にはない仕方で世界と関わることはある(むしろどうやってそれを避けられるのか)。

『新たな距離』、513頁。

引用はやはり、「小説」に媒体をかぎっているが、私の所感では、あらゆるフィクションとの関係がそうである。つまり、あらゆるフィクションが、それを受け取ったものの思考や肉体を「変容」させ、「それ以前にはない仕方で世界に関わ」らせるものであると思う。

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私は基本的に、(『応答』の拙稿でも述べたように)すべてがフィクションだと思っている。この世界も、国家も、法律も、会話も、他人も。

ただしもちろん、それらの “質” や “優先順位” には差異をつけなければいけない、という倫理的な務めを察することはできて、だから私はやはり、「現実」に在るとされている友人のことを優先し、「現実」で起こっているとしか思えない戦争に対してアクションを優先的に起こす。

ただし、それと同程度に、私はフィクションからやはり否応なしに、多大な──ともすると過大な──感覚の “質” を受け取ってしまう。アニメのなかで起こったことは「現実」にあったことだし、小説のなかで投げかけられた言葉は私を「実際に」励ます。

そこにはだから「距離」がなくて、そこには客体(対象)と主体(私)なるものは本当には無い。だから本当には「他者」もいないし、「私」も無い。無いものすらも無い。

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と、私はふだんから考えているから、『新たな距離』には、私がすでに知っていることが書いてあった。そして同人の大玉さんは、そのことを分かっていて、だから私にこの本を薦めてくれた。このこと自体はまずもって奇跡みたいなことで、このことを私は素朴に有難く思う。

とはいえ、もちろん全部が全部知っていることだったわけではけっしてない。それに、私が考えていることからは、ずいぶんと距離があるな、と感じた点が多々あったことも事実だ。

たとえば、以下のような大切な一節がある。

小説を、個々の文字から成り立つものではなく、それが肉体を触発し、様々な知覚や思考を生じさせるときの、その肉体側の近くや思考からこそ成り立つものだと捉える以上、テクストを離れたあとも、読み書くなかで得られた知覚や思考の運動(その影響)が続く限り、小説を経験する時間は続いている

『新たな距離』、36頁。強調は引用者による。

ここには、先にも述べた本書の大切なテーマ、つまり、テクストを離れたあともそのテクストと「身体的」に地続きになっているということが書かれている。とても大切な一節だし、上記に書いたように、すべてがフィクションだと思っている私は首をブンブン縦に振るくらいには首肯した一節でもある。

しかしながら同時に、ぜんぜんそんなことなくない? とも思う。つまり、テクストを離れたあと、小説を経験する時間は、一方ではつづくこともあれば、他方ではぜんぜん続かないこともあるのである。

具体的には、小説を経験する時間は、生活の時間、あるいは労働の時間のために、はちゃめちゃにさえぎられる。最初に書いたように、「ここまで読みたいけど明日仕事だし」とか、「これ読んでたら確定申告できないから今日はやめとかなきゃ」とか、そういうことがバリバリにある。

この意味では素朴に、小説を経験する時間はぜんぜん続かないし、めちゃくちゃブツ切りになる。小説を経験する時間がずっと地続きになっている人は、たとえば大江健三郎のような小説で食っていけた人、ある種の「選ばれた」人だけでは? とさえ思ってしまう。

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この点に関して、本書はかなり「書き手」目線で書かれた本だとも感じた。本は「書き手」にしか書かれないのだから、それは当たり前のことかもしれないし、そもそもいぬのせなか座は「「生を共同で組み換えるための実験場」として言語表現を用いる」(『新たな距離』、30頁)集団なのだから、しごく真っ当なことだとも思う。

ただし、たとえばいぬのせなか座をまったく読んだことがない人、本を年に1冊読めばいいほうだ、というような人に、この本はそもそも読み通せないし、何を言っているかぜんぜん分からないと思う。

そのような人にたとえば、「小説を読んで感動して、仕事とか人生に活かせるよね、以上のことがここに何か書いてあるの?」と聞かれたときに、私はきちんと答えられる自身がない。

しかしながらもちろん、そのような読者は本書のターゲットではないし、もっとかぎられた、小説が「世界を変えうる有効性を一切期待していないことを自覚」(『新たな距離』、512頁)している人、それでもなお、言語表現を中心としたスタイルにこだわって〈アトリエ〉を形成せざるを得ない人、ないし形成してゆくことに賭けられる人に向けて書かれていることは分かる。

加えて断っておけば、そのような「書き手」にとって、本書はきわめて希望となりうることは疑いようがないとすら思う。「世界を変えうる有効性を一切期待していない」/「小説は世界を変えることができない(かつても、これからも)」と言い切れてしまう人が、それでもこんなに分厚くて、重くて、長い物体を世に投げ打つことができるということ自体、凄まじいことだと思うし、並大抵でない覚悟と矜持をそこに感じる。私はそれに対して、こころから尊敬の念を感じる。

それでもごくごく独善的で、利己的な「私」の感想を言えば、それはとても “閉じて” いると思う。「私」とは方向性が違うと思う。本をまったく読まなくても、いっさいの屈託なく、また「屈託」という概念すらなく、日々をほんとうに幸せそうに生きている友人たちに囲まれている、あるいは過去にそうだった「私」には、こんなに分厚くて、重くて、長いものを背負っていく覚悟が持てない。

だから、私が制作できる──仮にできるとすればだが──〈アトリエ〉は、まったく別様のものになるだろう。これまでと同様、言語表現を含む、それとは別種のフィクション、つまりアニメーションやマンガ、YouTube、などといった「ひとつ」であるところの「フィクション」、何も無いところの「ひとつ」、それに向けて、読んだり書いたり、観たり聴いたり、描いたり詠んだりしてゆくのだろう。

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とすれば、この覚書もまた、ひどく独善的なものでしかないのだろうか。私はこれを、山本浩貴さん本人が、あるいはお読みになるかもしれないということを想定しているにもかかわらず、そして私が書いたことの大半を、山本さんは承知のうえでこの本を出されたのであろうということを想定してもなお、上のようなことを書いてしまっている。これが独善的でなくて、なんであろうか。

と書いて、ここに、この瞬間に、やはりすべてが「ひとつ」であることの地続きさを感じる。山本さんという人は、本当には無い。そんな人は本当にはいなくて、「私」という「ひとつ」のなかに、想定された「山本浩貴」さんがいるだけではある。

しかし人間はそのために、こんなにも言い訳を連ねることができる。こうして、時間と労力をかけて、言葉を紡ぐことができる。まさにこの在りようこそを、分厚くて重くて長いあの本に、「私」は感じたのではなかったか。

そして何よりも、分厚くて重くて長いあの本を、それでも「私」が読み通せたのは、コトヒキ会の面々を想ってのことだったのではないか。コトヒキ会という、ほかならぬ「私」の〈アトリエ〉のために。

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どうせ死ぬのに、どうしてこれができるのかと、自分でも不思議に思う。コトヒキ会の面々も、山本浩貴さんも、どうせみんな死ぬ。なのにこんなことを書いて、読んで、ほんとうにわけが分からない。

それでもなお、そこにある「みんな」を信じるという「錯覚」を、さらになお仮構して、私はこれを記している。

「ひとつ」“で” しかないけれど、「ひとつ」しかない世界のために。

『新たな距離』(筆者撮影)

参考文献
山本浩貴『新たな距離 言語表現を酷使する(ための)レイアウト』フィルムアート社、2024年。

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