自分史概要:人生万事塞翁が馬


はじめに

こんにちは、Aizackです。本稿では私の自分史について、大まかにまとめてみようと思います。各時期のエピソードは今後個々の記事で詳しく紹介する予定ですので、そちらも是非ご覧ください。それでは早速初めましょう!本日もよろしくお願いします!

本稿のキーワードは以下の通りです。波乱万丈でアップダウンの激しい人生を経験した私の物語が、読者の方に勇気を与えられれば幸いです。とはいえ、基本的には自分のための振り返りですので、過度な期待はしないでください。

本稿のキーワード

・挫折と復活を繰り返す人生
・我武者羅な目標への打ち込み
・人生万事塞翁が馬
・周囲の大人に恵まれた幸運

10代のころの私

学業はそれなり、大人の覚えもいいが壊滅的に理数系・英語科目が駄目

小学生では勉強が得意でした。中学ではその鳴りを潜めましたが、それでも生徒会に入るなど先生方からの評価は良かったと記憶しています。ただ、我が強く、トラブルも良く起こしていました。学業面では成績に偏りがあり、文系科目に強く、理数系特に数学にはめっぽう弱かったのを覚えていましす。英語はリスニングは得意でしたが単語や文法が苦手で評価は低かったです。義務教育期間の人となりや出来事については、以下の記事に記載しています。

高校中退・高卒認定と予備校での浪人生活

高校は2年で中退しました。中学がそれなりに優秀な学校で、授業態度も良いクラスメイトが居たため頑張れました。ところが、高校は通学距離は13キロと遠く、校則は厳しく、昭和の香りが色濃くのこる(自称)進学校でした。その上、部活加入が必須で全くプライベートが確保できず、毎朝5時起きで10時帰宅という生活。勉強する時間はありませんでした。

結果、その生活に耐えられなくなり不登校から退学に至りました。当時、近所の心療内科や大学の児童心理教室での助けを受け、大学への思いを抱くほどに回復しました。そして高卒認定(旧大検)を取得し、1年の浪人期間を経て大学へ入学するとができました。

浪人時代は高校3年分を取り戻すために予備校の自習室に最大16時間こもって勉強したのを覚えています。同級生に置いていかれたコンプレックスがその無茶を支える原動力だったのでしょう。

20代の頃の私

大学生活の満喫と海外留学・ノイローゼ(カルチャーショックやうつ病疑惑)

そこで入学した大学は、英語での専門授業や留学に力を入れており、遊び場がない田舎でした。ウガンダ出身のルームメイトや様々な地域出身の寮生と交流することで多様性を感じながら学生生活を満喫しました。中高生の頃は全く英語が話せなかった自分からすると信じられない環境ですが、その苦手意識があったため追いつくために英語の勉強を頑張ることが出来ました。

また、入学前からの目標であった留学も、3年時にフィリピン大学へ10ヶ月行くことが出来、順調に進んでいました。しかし、英語は身についていても現地学生と話したいことがまったくない、興味が持てないという問題に直面しました。その結果、現地の友人はできず、カルチャーショックとノイローゼ・うつ傾向のままで留学期間の後半を無駄にしてしまいました。その点は今も後悔しています。

休職、就職資金を稼ぎながらの、たった1人の就職活動

帰国後、父の体調不良や母方の祖母の介護が必要だったので、自宅に戻り運転免許を取得。近所の中古買い取り販売店でのアルバイトをはじめ、その給与を元手に就職活動を行っていました。福岡、広島・東京など様々な都市で営業職を中心に就職活動を行いましたが、書類で何を書けばよいかわからず、落ちた会社は30社以降は数えていません。

そんな中、偶然参加したイベントでIT企業の人事の方と出会い、エンジニアであろうとも営業は必要だという持論を伝えた所、トントン拍子に内定を頂きました。それが結局新卒として入社した中堅SIer(他社のシステム構築・設計・コンサルを行う企業)でした。

入社後の私

入社後は先輩方に可愛がって頂きました。1年目からお客様先に常駐し、システム構築のお手伝いをすることになりました。3年感、大手企業の中で仕事をさせていただきました。この仕事についても学生時代に理系科目が全く苦手だった自分からすると信じられない決断でしたが、大学時代に経営を学んでいたことが功を奏し、国家資格である基本情報技術者を取得することもできました。

ところが3年目に、私のミスで常駐先のお客様や直属の上司に謝罪をさせてしまうトラブルを起こしてしまいました。ちょうどその頃に父が亡くなり、繁忙期と重なったため、自身のキャパシティを超え始め、体調を大きく崩しました。

上司やお客様・チームメンバーに心配をかけましたが、病院の検査でも原因がわからず、半年程体調は悪化し続けました。そんな中、会社最寄りの精神科で診察を受けた所、適応障害・うつ病の診断され、ドクターストップがかかりました。その後、就業規定いっぱいの休職を経て、その職場からは退職しました。

30代、現在の私

生活保護による社会復帰のための準備期間

うつ病をきっかけに複数の病気を経験し、これまで通りの健康な生活を送ることは諦めざるを得なくなりました。現在は、自身の体力的・精神的弱さや得意不得意のギャップを受け入つつ、社会復帰することを目指しています。

生活保護を受給することについて、当初は屈辱に感じていました。子どもの頃からメディアによる生活保護たたきや自己責任論に触れていたため、自分がその立場になることを恥じていました。そして、社会生活に耐えきれなかった私の責任として、慎ましくご迷惑にならないように生きねばと考えていました。

しかし、短期間とはいえ会社員として社会保険料や年金を支払っていたことを思い出し、保護をうけることは真っ当な権利であることに数ヶ月経って気がつきました。現在は自分の将来のため一時的に力を貯める良い機会だと考えるようになりました。

生活保護を受給してみると細かい部分で融通がきかないことを知りました。加えて自助の要素が強い制度ではありますが、なければ野垂れ死んでいるので結果的には助かっています。(無論、納得していない部分もあるため、担当のケースワーカーさんと交渉しながら生き残るためにあがきます。)

受け入れてもらう前後の困ったことについては、別の記事にまとめています。ご興味があればこちらもご覧ください。

闘病、そして社会復帰

うつ病から派生した糖尿病や腰椎ヘルニアからくる慢性腰痛。2024年5月〜7月はそれらの傷病の治療・リハビリに努めています。同時に自宅でのリングフィットと利用した体力づくりを通じて社会復帰の準備を進めています。(これはいずれ詳しく語りたいと思っています。)

また、8月を目処にNeuro Dive横浜という就労移行支援事業所に通所開始予定です。準備中のため開始時期は未定ですが、序盤は在宅中心に進めつつ、最終的には週5・フルタイムの通所で就労のチャンスを広げたいと考えています。

おわりに

本稿では、私の闘病期間についてざっくりとまとめてみました。それぞれの時期については別の機会に詳細を記事にしたいと考えています。それくらい濃い経験や本来経験しなくても良い苦労をしてきた自負はあります。しかし、何が起こるかわからないのが人生。苦手や嫌いなこと、無関係だと思っていたことが功を奏することもありました。不思議なものです。

ここまで紆余曲折ありましたが、劇的なアップダウンをしながら、必死に生きている人間もいるということで、現在苦しい状況で悩んでいる方の力になれば幸いです。

とはいえ、この話は私の生まれ育った環境・周囲の恵まれた人々との縁が作り出したものです。そのため、誰でもできることではないと自覚しています。私は極めて運が良く、生き汚いだけです。この経験を一般化して応用できるほどのものではないという点だけは最後に強調させていただきます。

長文・乱文ですが、お読みいただき、ありがとうございました!また別の機会にお会いしましょう!

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