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Mita_Yonda_4 『ダンサー・イン・ザ・ダーク 4Kリマスター』

Mita_『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォントリアー

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立川シネマシティ、4Kデジタルリマスター版のリバイバル上映で初鑑賞。

大筋としては、失明した主人公が不幸のどん底に文字通り突き落とされるというメロドラマで、とにかく読後感ならぬ観賞後感が悪いというのは聞いていて、ラストシーンのネタバレもされていたので、きっと嫌な気分になるんだろうなと思っていたんだけど、ちゃんと嫌な気分になったので感心した。

まあもうみんな観てると思うんですが、一応以下ネタバレを含む感想です。


じゃあなんで嫌な気分になるのかと言うと、あのラストシーンの『Next To The Last Song』が途切れてセルマが宙吊りになった瞬間、それまでセルマに寄っていたカメラが死刑の立ち合い(傍聴?)席からの視点に切り替わることで、観客である自分がずっと映画のはじめから終わりまで、一貫して傍観者であったことに気付かされるからなのかもしれない。

もちろん観客は映画に介入することはできないんだから傍観者なのは当たり前だろうという話になるんだけど、そこはラース・フォントリアー、本当に底意地が悪くて、劇中でわざわざセルマに「最後の曲が流れて映画が終わって現実に戻ってしまうのが嫌だから、最後から二曲目が始まったら映画館を出るの」と語らせてることで観客に選択肢を示し、さらに『I've Seen It All』(私は全てを見た)という曲をクライマックスの手前にセルマに歌わせることで、そこから先には見る(=観る)べきではないことしか起こらないということが明示される。

それでも私たち観客はお金を払っているし、作品がどう終わるのかが気になるから、あたりまえのようにそこに座り続けて観続けてしまう。

<失明する=見えなくなる>セルマの物語を<観る>という行為を能動的に続けたことをラストシーンで突然糾弾され、鑑賞という行為が誰かの悲劇の消費であるかもしれないことに気付かされる。だから救いのないストーリーと相まって観客はとても嫌な気分になる。

それまでセルマが逆境に陥るたび、まるで救いのような素振りで挿入されてきたミュージカルのシーケンス。セルマを傷つけるものだった彼女を取り巻く全てが、笑顔をたたえ、ステップを踏み、声を揃える。しかしラストシーンでは、セルマが歌う背後で刑務官たちは明らかに動揺した表情を浮かべ、立ち会う人々も同様の反応を見せる。そして執行とともに途切れた『Next To The Last Song』はそのタイトルとは裏腹に最後の歌になり、私たちはそれまで座っていたコンフォタブルな映画館のシートが死刑室の傍聴席にすり替えられていることに気が付く。

そう考えると希望にも思えたラストカットの字幕、

「They say it's the last song. They don't know us, you see. It's only the last song if we let it be」

という言葉は痛烈な皮肉になる。なぜならばこの言葉はそれまで映画の中に横溢していた嗚咽のようなセルマ=ビョークの声ではなく、まして劇中の他の誰かの声でもなく、観客だけが見える字幕という形で語られる言葉なのだから。

観客に問いを投げかける映画はこれまで何本も観たけれど、ここまで鑑賞という行為を批判されたように感じたのは初めてで、それゆえに確かに衝撃作だったし、そんな離れ業をやってのけた上で映画が成立していることに脱帽。


Netflixでも観られますが絶対劇場で観た方がいい映画。

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